国共内戦と中共シンパ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 03:54 UTC 版)
「チャイナ・ハンズ」の記事における「国共内戦と中共シンパ」の解説
1945年8月に日本が降伏すると国共内戦が再発した。アメリカは中国国民党への支援を続けていたものの、その規模は以前に比べると小さくおざなりなものであり、情勢はソ連から支援を受けていた中国共産党有利に傾いた。 1945年11月に中国大使を辞任したハーリーは、議会にて「チャイナ・ハンズが大使の職を妨害し共産主義者に同情的であった」と証言した。スティルウェルの後任であったアルバート・ウェデマイヤー将軍も、国務省が対策を怠ったと述べた。 1949年に中共が内戦での勝利を宣言し、同年10月1日に中華人民共和国を建国すると、冷戦が深刻化する中で「元々親アメリカであった中国」がなぜ共産主義国となったのかという批判が、保守派政治家やジャーナリストの中で唱えられるようになった。戦時中に中国に勤務していた退役大尉のジャーナリストジョセフ・オルソップは、1950年に『サタデイ・イーヴニング・ポスト』紙でチャイナ・ハンズを激しく批判する「何故我々は中国を失ったのか?」と題された連載記事を執筆した。 そして、1950年2月9日に上院議員ジョセフ・マッカーシーはアメリカ共産党員の外交官がスパイとして政策を歪めたとする演説を行い、これはその後も数年間続く「赤狩り」の始まりとなった。同年6月25日に勃発した朝鮮戦争と中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の参戦も追い風となった。 ジョン・スチュアート・サーヴィス、ジョン・カーター・ヴィンセント、ジョン・パットン・デイヴィスの3人は国家に対する忠誠に問題があるとして、ジョン・フォスター・ダレス国務長官によって免職された。チャイナ・ハンズの失脚により、インドシナ政策についてもアメリカは正確な情勢判断ができず、ベトナム戦争に突入することになった[要ページ番号]。
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