国共内戦での敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 19:30 UTC 版)
1946年(民国35年)4月、国共内戦の本格的勃発に伴い、范漢傑は国民政府軍事委員会委員長東北行営副主任に任ぜられ、さらに翌月には国防部参謀次長、6月には陸軍副総司令に起用された。6月、山東方面の戦線に向かい、第1兵団司令長官(後に膠東兵団司令官兼任)として中国人民解放軍華東野戦軍を迎撃した。しかし年末までに大敗を繰り返し、第1兵団司令官から罷免されてしまう。1948年(民国37年)1月、衛立煌が東北剿匪総司令に任命された際に、范は冀熱遼辺区司令長官としてその下に付く。2月には熱河省政府主席も兼ねた(実際の事務は于国楨が代理)。しかし衛と范は連携が上手くいかず、范が一時辞職を申し出たほどだったが、蒋介石はこれを認めなかった。同年9月、東北剿匪総司令部副総司令兼錦州指揮所主任として錦州の堅守を図るも、翌月の遼瀋戦役で東北人民解放軍の前に錦州は陥落、范は捕虜とされてしまった。 范漢傑は12年もの長期にわたり戦犯管理所に拘留され、思想改造を受けた。1960年11月に特赦を受け、1962年には中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会専員となる。1964年、第4期政治協商会議全国委員会委員に選出された。1976年1月16日、北京市にて病没。享年81(満79歳)。
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