国共内戦と晩年
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日中戦争終結後、馮治安は第3綏靖区司令官に任ぜられ、徐州の東北に駐留する。1948年(民国37年)8月、徐州剿匪総司令劉峙を補佐する副総司令に任ぜられ、中国人民解放軍を迎え撃った。しかし戦闘の最中に馮配下の2万の軍勢が起義(反国民党蜂起)を行ったことなどもあり、国民党側は大敗を喫してしまう。馮は劉に対して自ら罪を申告し、罷免の上で南京に護送された。蒋介石は声望のある馮を処分することでの悪影響を恐れ、罪に問わなかった。翌年1月、馮は京瀘杭警備司令部副総司令に任ぜられ、南京を防衛する湯恩伯を補佐したが、まもなく国民党軍は敗退した。馮治安は台湾に逃れ、国民大会代表、総統府戦略顧問、大陸光復設計委員などを務めている。 1954年(民国43年)1月9日、台北市にて病没。享年59(満57歳)。死後、陸軍上将位を追贈された。
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国共内戦と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/17 20:09 UTC 版)
日中戦争終結後、孫蔚如は武漢で日本軍の受降官を務め、12月には第6戦区を改組した軍事委員会武漢行営(後に「行轅」)で副主任に任命された。しかし、実際の軍事指揮権を委ねられることはなかった。1948年(民国37年)8月、総統府戦略顧問委員会委員に任命される。まもなく杭州へ移り、自らが率いていた警衛団を第232師に改編した上で湖南省の程潜を頼っている。1949年(民国38年)8月、程が長沙起義(反国民党蜂起)を決行すると、孫もこれに同調した。 中華人民共和国建国後の1950年8月、孫蔚如は邵力子の紹介で中国国民党革命委員会(民革)に加入した。以後、民革の中央常務委員・陝西省委員会主任委員、第1期・第4期中国人民政治協商会議(政協)陝西省委員会副主席、第5期政協全国委員会委員、第1期~第3期陝西省人民代表大会代表、陝西省副省長、国防委員会委員などを歴任している。1979年7月27日、病没。享年84(満83歳)。
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国共内戦と晩年
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1946年(民国36年)10月、甘粛省での治績を評価される形で、谷正倫は国民政府中央で糧食部部長に任命された。翌年4月、貴州省政府主席に任命され、久しぶりに地元への復帰を果たすことになる。谷は国共内戦対応のために反共政策による統制を懸命に進めた。しかし内戦は共産党優勢に展開し、次第に谷は追い詰められていくことになる。 1949年(民国38年)11月になると、貴州省西南部一帯に駐留していた第89軍軍長劉伯竜から谷正倫は省政府主席の地位を狙われるようになった。そして劉が谷のかつての上官であった盧燾を殺害するなどの暴挙を働くと、激怒した谷は劉を急襲・処刑する。この頃にはもはや中国人民解放軍が貴陽間近に迫っており、谷はまもなく台湾へ逃亡、ほどなくして貴陽も人民解放軍に占領された。台湾での谷は、総統府国策顧問に任ぜられている。 1953年(民国42年)11月3日、台北市にて病没。享年64(満63歳)。
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国共内戦と晩年
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1946年(民国35年)1月、張君勱は民盟代表の一人として、政治協商会議(旧政協)に出席した。8月、国家社会党は民主憲政党(華僑の政党で、康有為支持派の流れを汲む)と合併し、中国民主社会党を結成している。その後、国共内戦の勃発に従い、張君勱ら民主社会党は次第に反共の姿勢を強め、11月には中国青年党とともに民盟を離脱し、制憲国民大会に出席した。翌1947年(民国36年)7月、民主社会党は上海で第1回全国代表大会を開催し、張君勱が党主席に選出された。 国共内戦末期の1949年11月に張君勱はマカオを経由してインドに赴いた。インドではデリー大学とコルカタ大学で教鞭をとる。1951年、アメリカに赴き、1955年にスタンフォード大学で中国共産党政治研究を行う。また、聯合報系の在米紙『世界日報』で論説を執筆した。その後も世界各国を歴訪し、孔孟学説や反共思想について講演等を行った。 1969年2月23日、サンフランシスコにて死去。享年83(満82歳)。
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