国共内戦による混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/09 09:09 UTC 版)
こうして南満州鉄道はその姿を消し、中国長春鉄路として装いも新たに、戦後処理として日本側から中国側へ、ソビエト連邦を介しながらの鉄道業務引継が開始された。 1945年10月11日、中華民国政府は長春に「東北行営」と称される行政支所を設置、同時に中国長春鉄路公司中国側代表・張公権が着任した。これに前後して哈爾浜・長春・大連・瀋陽に分局が設置され、鉄道会社としての形態が次第に整備されて行った。 しかしその頃になると、中華民国政府を主導する中国国民党とそれに協力した中国共産党は戦後構想の相違により決裂、ついに国共合作が解消されて内戦状態へと突入した(国共内戦)。 満州ではソ連侵攻の際に錦州や安東など東満州・西満州、さらには北満方面に進出していた中国共産党員が活動を開始、11月8日には共産党が大連の実効支配権を掌握し市人民政府を設立、大連分局も共産党により掌握され、会社は分裂状態となった。 さらに11月19日には長春に侵攻、政治的取引により撤退したものの、国民党側は東北行営を閉鎖するなどの影響が出た。しかし翌1946年1月10日に国民党・共産党は停戦協定を結び、内戦拡大は避けられるかと思われた。 こうした状況下、1946年1月15日からソ連軍がほぼ2ヶ月かけて撤収を開始し始めた。先述のような末端兵の軍紀の乱れにより被害をこうむっていた住民に一時の安堵を与えたが、3月14日に共産党軍が突然吉林省南部の公主嶺付近で鉄道を爆破、国共内戦が再開されることとなった。 共産党軍の攻撃に対し国民党は4月6日に瀋陽に「東北行轅」として行政支所を再設置、共産党軍と対決姿勢を強めた。4月18日には長春で両軍が衝突、その結果長春は共産党が占領、鉄道や鉄橋は大部分が破壊され鉄道機能を喪失した。関東軍の遺した武器を接収して高い戦闘力をつけていた共産党軍の勢いに、やむなく会社は瀋陽に本社を移転している。 4月22日には国民党側によってその再建が始まったが、共産党軍は4月29日には四平も占領。再び軍事的緊張が高まった。 しかし共産党軍は5月23日に長春から撤収、再び国民党が施政権を回復すると、会社の本社も再度長春に戻った。この時点でソ連側の幹部は大連に移動しており、以後は中華民国側が経営主導権を掌握することとなった。国民党軍も末端に軍紀の乱れがあり、掠奪などの事件を起こしたが、次第に治安は回復の兆しを見せ始めた。 それでも国民党と共産党勢力が一進一退で対峙する不安定な平衡状態が続いていたことに変わりはなく、ついに7月12日に全面戦争に突入することになる。中ソ友好同盟条約により、一応ソ連の軍事支援などは国民党側に流れることになっていたほか、アメリカ合衆国の支援も受けていたため、その軍事力は高かった。同条約でソ連も表立って支援できなくなる中で共産党は戦わざるを得ず、状況自体は国民党側に有利であった。 国民党軍は長春を奪回した後、北進し共産党軍を撃破、10月になると今度は南進し普蘭店までの地域を奪回した。 これとともに不通となっていた鉄道も徐々に再開されたものの、共産党軍が鉄道を破壊して進軍したのを修復しながらであった。当時破壊された設備は、車輛では機関車179両・客車68両・貨車468両、設備では線路が300ヶ所以上、橋梁が228ヶ所に上り、修理だけで約33億5千万元の経費が発生するなど厳しい財務状況での営業が続いた。
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