国共内戦の敗北、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:52 UTC 版)
国共内戦で薛岳は徐州綏靖公署主任に任ぜられ、魯南解放区への攻撃を指揮したが、戦果はあげられなかった。1947年(民国36年)5月、国民政府参軍長に任ぜられる(翌年5月、蔣介石が総統に当選すると、薛は総統府参軍長に移る)。翌1948年(民国37年)、副総統選挙において薛は孫科を支援し、新聞報道に圧力を加えるなど活動したが、結局、孫は李宗仁に敗れた。 1949年(民国38年)2月、薛岳は広東省政府主席に任ぜられ、中国人民解放軍を迎撃しようとした。しかし、すでに大勢を覆すほどの力はなく、10月14日には広州を喪失してしまう。薛は海南島に逃れて抵抗を続けるも、1950年5月、これも失陥した。 以後、薛岳は台湾に逃れ、総統府戦略顧問に任ぜられる。1958年(民国47年)8月、行政院政務委員に、1966年(民国55年)5月に国民党光復大陸設計研究委員会主任委員に、それぞれ任ぜられた。 1998年(民国87年)5月3日、台北市にて病没。享年103(満101歳)。
※この「国共内戦の敗北、晩年」の解説は、「薛岳」の解説の一部です。
「国共内戦の敗北、晩年」を含む「薛岳」の記事については、「薛岳」の概要を参照ください。
国共内戦の敗北、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:36 UTC 版)
第二次世界大戦終結後の1945年10月、杜聿明は雲南の地方軍閥の竜雲を排除し、中国西南部における国民党の立場を強めることに貢献した。同月、国共内戦が激化する中で、杜聿明は東北九省保安司令部司令長官に任命され、中国東北部(満州)に派遣され四平攻防戦(英語版)を指揮した。その後も野戦司令官として転戦し、国民党が東北から撤退すると徐州に転戦した。1948年12月、新華社によって「43人の国民党戦犯(中国語版)」の一人に指名された。 1949年1月、淮海戦役の際に河南省永城県陳官荘で中国共産党軍の捕虜となった。43人の「戦犯」の中で唯一捕虜となった杜聿明は功徳林戦犯管理所に送られ、思想改造を施された。1959年12月、恩赦を受けて釈放された。その後、中国人民政治協商会議の高い地位が与えられている。報道によれば、杜聿明の義理の息子(長女の杜致礼の夫)である楊振寧(1957年ノーベル物理学賞受賞者)が中国に帰国するよう杜聿明が説得することを中国政府が望んだためであるという。 1981年5月7日、北京で病没。享年78(満76歳)で没した。
※この「国共内戦の敗北、晩年」の解説は、「杜聿明」の解説の一部です。
「国共内戦の敗北、晩年」を含む「杜聿明」の記事については、「杜聿明」の概要を参照ください。
- 国共内戦の敗北、晩年のページへのリンク