国共内戦に敗北、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 03:21 UTC 版)
日中戦争終結後の1946年(民国35年)5月、顧祝同は、国防部陸軍総司令に昇進した。6月には、鄭州綏靖公署主任に任命され、国共内戦のために、30万の軍勢を率いて共産党側の中原解放区へ進撃した。しかし、攻撃は失敗に終わり、翌年3月には45万の軍で山東解放区を攻撃したが、これも失敗に終わる。 1948年(民国37年)秋に、顧祝同は国防部参謀総長となり、南進してくる中国人民解放軍を迎え撃った。しかし、やはり劣勢を挽回するには至らず、大陸の要地を次々と失陥した。追い詰められた顧は、1949年(民国38年)12月に西南軍政長官に任命されて最後の抵抗を試みている。しかし、わずか1月で敗北し、台湾へ逃れた。 台湾へ逃れてからも、蒋介石の命令により、密かに雲南省西部の蒙自県に潜入して遊撃基地を建設するなどしたが、効果はなかった。台湾では、参謀総長兼国防部長、総統府戦略顧問委員会副主任委員、国防会議秘書長、国民党中央評議委員会主席団主席などを歴任した。 1987年(民国76年)1月17日、台北で脳溢血により死去。享年95(満94歳)。
※この「国共内戦に敗北、その後」の解説は、「顧祝同」の解説の一部です。
「国共内戦に敗北、その後」を含む「顧祝同」の記事については、「顧祝同」の概要を参照ください。
- 国共内戦に敗北、その後のページへのリンク