国共内戦への反対
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1937年(民国26年)8月、楊杰は実業考察団団長としてソビエト連邦を訪問した。10月、陸軍上将銜を授与される。翌1938年(民国27年)5月、駐ソ大使に任ぜられ、1940年4月まで務めた。帰国後は中央訓練団教官に任ぜられ、1944年(民国33年)には軍事代表団団長として欧米各国を再び歴訪している。翌年5月、国民党第6期中央執行委員に再選された。 日中戦争(抗日戦争)終結後、楊杰は国共内戦の推進に反感を覚え、蒋介石から離反していく。1945年中には、譚平山らと三民主義同志聯合会を結成した。その後、国民政府戦略顧問委員会、行憲国民大会代表を経て、1948年に中国国民党革命委員会(民革)中央執行委員となる。以後、雲南派の元指導者である竜雲と共に香港を拠点に活動し、雲南省政府主席盧漢に起義を働きかけた。1949年(民国38年)6月には、中国共産党から中国人民政治協商会議第1期全体会議代表としての出席を呼びかけられている。 ところが同年9月19日、楊杰は香港において国民党特務機関の刺客により狙撃、暗殺されてしまった。享年61(満60歳)。1982年6月5日、中華人民共和国民政部は楊を「革命烈士」として追認している。著書に『国防新論』、『軍事と国防(原題:軍事與國防)』、『国民軍事必読』、『ソ連の国防政策(原題:蘇聯的國防政策)』、『戦争抉要』、『総司令学』、『孫子浅釈』、『欧州各国軍事考察報告』などがある。
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