日中戦争・国共内戦での活動
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「章乃器」の記事における「日中戦争・国共内戦での活動」の解説
1938年(民国27年)春、章乃器は安徽省政府主席李宗仁に招聘され、省政府秘書長や省政府財政庁庁長に起用された。章は短期間で綱紀粛正・財務整理に優れた成績をあげ、日本軍と対峙する李への後方支援をなしている。翌年夏、章は重慶に赴き、非国民党人士による連合組織である統一建国同志会(後の中国民主同盟)の結成に参加した。しかし、1941年4月に結ばれた日ソ中立条約に対する評価をめぐり、章乃器は中国の主権を侵害する内容であると批判したが、救国会の他の指導者は批判を加えようとしなかったため、失望した章は救国会を脱退している。抗日宣伝の一方で、上川企業公司を創設したほか、上海遷川工廠聯合会執行委員・常務委員、中国工業研究所所長などを務め、実業界の活動にも従事した。 1945年(民国34年)に日中戦争が終結すると、章乃器は黄炎培らと中国民主建国会(「民建」)を結成し、正式に成立した12月に常務理事に選出された。1946年(民国35年)1月の政治協商会議(旧政協)には、民建の合法的地位を蔣介石が認めなかったために、章は中国民主同盟(民盟)の顧問として参加した。この頃から、国共内戦推進に反対する非国民党人士への国民党特務による白色テロが相次ぎ、章もまた襲撃されている。 国共内戦が進展する中、章乃器は上海、香港と移って反内戦の言論を展開し、次第に共産党に寄るようになっていった。1949年2月、章は北平入りし、共産党政権への参加を確定する。6月15日には、民建を代表して新政治協商会議準備会議に出席し、9月下旬に第1回の中国人民政治協商会議に参加した。
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日中戦争、国共内戦での活動
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「趙祖康」の記事における「日中戦争、国共内戦での活動」の解説
戦時中の趙祖康は、「三西公路」(西蘭公路、西漢公路、楽西公路)の建設・修築において特に活躍が顕著であり、これら道路はソビエト連邦との連携確立の上でも重要な役割を果たした。また、ビルマ公路の建設でも主導的役割を果たしている。1944年(民国33年)7月、交通部公路総局副局長となり、翌1945年(民国34年)2月には交通部顧問に移った。戦後の8月に上海市工務局局長として派遣され、正式な任命の無いまま業務を開始する。翌1946年(民国35年)、ビルマ公路建設の功績により、アメリカ大統領のハリー・S・トルーマンから大統領自由勲章を授与された。1947年(民国36年)10月、ようやく正式に上海市工務局局長として任命された。 国共内戦末期になると趙祖康は中国国民党を見限り、中国共産党へ接近して連携を確立し始める。1949年(民国38年)5月5日に陳良が上海市長に就任したが、僅か12日で辞任、同月24日になって上海市政府の官僚から支持を受ける形で趙が市長代理となった。趙はすでに共産党との連携を進めており、損害を拡大させないよう事後処理を行うことに専念した。5月27日、国民党側の抵抗は小規模なものに留まり、上海はほとんど損害なく中国人民解放軍の側に渡った。
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