日中戦争、晩年
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日中戦争(抗日戦争)勃発後も、曹浩森は引き続き軍政部政務次長を務め、抗戦体制の整備に尽力した。1942年(民国31年)2月、江西省政府主席に就任、さらに翌年5月には全省保安司令も兼ね、対日戦の指揮に加わっている。1945年(民国34年)5月に中国国民党第6期中央監察委員に選出された。 戦後の1946年(民国34年)3月、曹浩森は江西省政府主席を辞任、同年11月に制憲国民大会代表に選出された。翌1947年(民国36年)3月には監察院監察委員に就任している。同年冬、陸軍上将位を授与され、予備役に退いている。国共内戦で国民党が敗北すると、曹も台湾へ逃れた。 1952年(民国41年)2月5日、台北市にて病没。享年67。
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日中戦争、晩年
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1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発し南京が陥落すると、馬超俊は武漢へ逃れた。これ以後、馬は抗戦のための民衆・社会の組織に従事することになる。翌年春、中国児童救済総会理事長に就任し、さらに全国慰労総会副会長も務めた。4月、国民党中央社会部副部長に任ぜられ、1940年(民国29年)、党中央組織部副部長に異動している。1942年(民国30年)、重慶で呉鉄城らと南洋華僑総会を創設し、翌年に馬は同会理事長に就任した。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に選出されている。 戦後、馬超俊は南京市長に復任し、接収事務を進めた。1946年(民国35年)12月、国民党中央農工部部長に任ぜられ、翌年9月の党6期4中全会で中央執行委員会常務委員に当選している。1948年(民国37年)4月、南京で中華民国全国総工会を創設した。国共内戦末期に台湾に逃れ、以降は総統府国策顧問、国民党中央紀律委員会委員、華僑協会総会理事長、光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員、広東同郷総会理事長、総統府資政などを歴任している。1965年(民国54年)には、台湾中国文化学院と協力して労工研究所を創設し、その理事長を務めた。 1977年(民国66年)9月19日、台北市にて病没。享年82(満80歳)。編集した書籍に『中国労工運動史』、『中国労工問題』、『三民主義労工政策』、『比較労工政策』などがある。
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日中戦争、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/12 04:19 UTC 版)
1931年(民国20年)9月の満州事変(九・一八事変)後、上海各界抗日会が成立し、王曉籟は常務委員をつとめた。1938年(民国27年)4月、中央賑済委員会常務委員を兼任し、中国紅十字会救護隊を管轄している。1940年(民国29年)12月、第2期国民参政界参政員に任ぜられ(第3期、第4期もつとめる)、紅十字会総会救護総隊特別党部政治部主任も兼ねた。1945年(民国34年)、全国商会聯合会籌備会主任、中南貿易協会理事長などをつとめている。 日中戦争終結後、全国商会聯合会理事長や中一信託公司、通易信託公司、江海銀行、東南汽車公司などの董事長、中国銀行、中央信託公司の理事、上海市商会監事などの職務を歴任した。1949年(民国38年)、香港に移る。1950年に上海に戻り、中華人民共和国から中国人民銀行総行代表に任命された。1954年、上海市人民代表大会代表に当選し、1958年には上海市政治協商会議委員に任ぜられた。1967年6月15日、上海にて死去。享年82。
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日中戦争、晩年
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日中戦争勃発後、繆培南は第4路軍参謀長兼広州警備司令として復帰した。しかし第4路軍総司令余漢謀と不和になったため、1938年(民国27年)1月、早くも辞任して香港や故郷の五華県に閑居している。1939年(民国29年)6月、第9集団軍副総司令として復帰し、秋には第65軍軍長も兼任した。翌年3月、第65軍軍長を辞任し、粤閩辺区副総指揮となる。7月、第9集団軍総司令に昇進した。 1941年(民国30年)5月、軍事委員会中将高級参謀に異動している。1944年(民国33年)11月、広東綏靖公署副主任に任ぜられた。日中戦争終結後は、聯勤総司令部第3補給区司令に任ぜられる。1948年(民国37年)8月、広州綏靖公署副主任となるが、翌年6月に辞任した。以後、一家で香港に移住している。 1970年5月9日、香港九龍にて死去。享年76(満75歳)。
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日中戦争、晩年
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日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)2月、銭大鈞は航空委員会主任に任ぜられ、空軍の指揮を執る。同年4月に武漢での空戦を指揮し、5月20日には九州へ向けて軍用機を派遣し、福岡県などで宣伝弾(ビラを撒くためのもので殺傷能力は無い)を撒かせた。また、蔣介石の命により長沙大火や贈収賄事件などの捜査・事後処理も担当した。しかし10月に武漢も陥落、航空委員会は衡陽、貴陽を経て翌年1月に成都へと逃れた。この頃、中国空軍はソ連からの支援を絶たれ「暗黒時代」と呼ばれる苦しい時期であり、2月より激化した重慶爆撃を阻止することはできなかった。1939年4月8日、軍統局長賀耀組及び副局長戴笠からの報告で用途不明の特別費を受け取っていることが露見、重慶での定例会議が終わった翌5月25日、軍法執行総監部に拘留される。6月2日、軍事委員会により高等軍事会審法庭の開廷が決議され、4日開廷、唐生智が審判長、陳調元及び徐永昌が審判官、邱毓楨、賈煥臣が軍法官を務めた。判決の結果、懲戒免職処分となった。 1941年(民国30年)7月、何応欽の推薦で軍事委員会運輸統制局参謀長(まもなく秘書長に改組)となり、国内外物資の運輸管制・検査を司っている。翌年3月、軍政部政務次長兼点検委員会主任に転じた。1944年(民国33年)11月、軍事委員会委員長侍従室第1処主任に戻り、また、軍事委員会調査統計局(軍統)局長も兼ねている。 1945年(民国34年)5月、銭大鈞は党第6期中央執行委員に再選され、日中戦争終結後の9月には上海市長兼淞滬警備司令に任ぜられた。しかし翌年5月には早くも辞任、軍政界から一時引退している。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に選出され、翌1949年(民国38年)2月には重慶綏靖公署副主任(6月、西南軍政長官公署副長官に改組)を務めた。 国共内戦で国民党が敗北すると、銭大鈞は海南島経由で台湾に逃れる。以後、総統府戦略顧問委員会委員、光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員、党紀律委員会委員などを歴任した。1963年(民国52年)にはチャイナエアライン(中華航空)董事長に就任している。また、銭はスポーツ振興活動にも熱心で、台湾省サッカー委員会主任委員、中華全国陸上競技協会理事長なども務めた。 1982年(民国71年)7月21日、台北市の三軍総医院にて病没。享年90(満88歳)。
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