日中戦争・国共内戦時とは? わかりやすく解説

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日中戦争・国共内戦時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 04:30 UTC 版)

中国青年党」の記事における「日中戦争・国共内戦時」の解説

1931年民国20年)の満州事変九・一八事変)後になると、青年党は抗日スローガン掲げ中国国民党への攻撃的言論停止宣言し、同党との協力関係模索し始めた。ただし、蔣介石召集した国難会議には、青年党は設定に不満を持ち参加していない。1937年民国26年)から、ようやく青年党は国民政府への協力を公式に開始した。 その一方で1939年民国28年)に重慶非国民諸派による建国同志会統一建国同志会)が結成されると、青年党もこれに参加している。同年国民党5期5中全会で「異党制限活動弁法(原文限制党活動弁法」)」を提示すると、青年党も反対示した建国同志会1941年民国30年)に中国民主政同盟1944年民国33年)に中国民主同盟(民盟)と改組されていき、青年はいずれにも参加している。なお、青年党の最高指導者だった曽琦は、日本側に事実上拘束される形で上海などに留まり幹部だった趙毓松張英華らは積極的に汪兆銘政権南京国民政府)に参加した戦後青年党は反共路線強化して共和交渉反対主張し蔣介石への積極支持示した1946年民国35年11月青年党は中国民主社会党民社党と共に制憲国民大会参加し、反蔣の方針堅持した民盟から離脱している。その後も行憲国民大会参加し、蔣が推進する国共内戦支持した

※この「日中戦争・国共内戦時」の解説は、「中国青年党」の解説の一部です。
「日中戦争・国共内戦時」を含む「中国青年党」の記事については、「中国青年党」の概要を参照ください。

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