台湾への撤退後とは? わかりやすく解説

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台湾への撤退後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 02:32 UTC 版)

第4航空軍 (日本軍)」の記事における「台湾への撤退後」の解説

大本営方針第4航空軍フィリピン運命を共にさせるというものであり、司令部をはじめ、航空兵地上要員問わず全員玉砕させるつもりであったが、独断撤退した富永は、自分司令部幕僚台湾到着後に、またも大本営方針破って第4航空軍搭乗員整備兵といった航空要員優先して台湾脱出させるよう命じた。この輸送作戦には、空挺特攻作戦生き残りとなった挺身飛行戦隊輸送機10機、第30戦闘集団などの「九七式重爆撃機」8機などの大型機のほかにも、「九九式双軽爆撃機」、「一〇〇式司令部偵察機」など第4航空軍人員複数乗せることができる稼働65機をかき集めてルソン島北部トゥゲガラオ飛行場台湾往復してピストン輸送行った台湾からの往路には、武器弾薬食料薬品などを空輸して、第14方面軍届けている。しかし制空権連合軍握られており、航空機では一度輸送できる人数限られていることから、同様にフィリピンから航空要員撤退させていた海軍が、3隻の駆逐艦救援に出すことを聞きつけた富永が、これを一部利用させてほしいと要請して了承得た。しかし、台湾出てルソン島に向け航行中「梅」空襲により撃沈され、残り2隻も引き返したその後富永は、同じく台湾撤退していた海軍第一航空艦隊司令部参謀副長山口槌夫少将派遣して司令長官大西滝次郎中将今後海軍艦艇利用要請している。海軍潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦準備したが、作戦察知したアメリカ軍潜水艦バットフィッシュ待ち伏せされ呂112呂113撃沈されて、ルソン島到着し航空要員救出成功したのは呂46のみであった。それでも、航空機ピストン輸送呂46救出され航空要員相当数上り日本軍航空史上で未曾有の救出作戦となった。しかし、万朶隊生き残り佐々木友次伍長や、靖国隊として出撃しながら不時着し生還していた出丸一男中尉木下顕吾軍曹ら、特攻戦死したとして2階特進となっていた一部特攻隊員たちは台湾へ撤退許可されなかった。 ルソン島置き去りとなった技術者以外の地上要員佐々木搭乗員一部のなかで、将校たちは口々に敵前逃亡以外の何ものでもない兵隊なら銃殺将校なら自決。刑はそれ以外あり得ない」「しかし、この臆病で卑怯な将軍には、もっともらしい理由捏造されて、決し処刑されいだろう何しろ、東條英機親分子分だからな」などと陰口言い合い下士官や兵は「命惜しまぬ 予科練の…」という歌詞知られる軍国歌謡若鷲の歌」をもじり「命惜しさ富永が、台湾逃げたその後にゃ」などという替え歌歌って富永第4航空軍司令部揶揄した批判富永個人ではなく第4航空軍司令部全体向けられており、脱出できなかった第2航空通信司令部参謀たちは、第4航空軍幕僚らを乗せた輸送機撃墜されたという情報聞くと「ざまぁ見ろ」とつぶやいていたという。置き去りにされた約1万第4航空軍残存将兵は、第14方面軍司令官山下命令によって一旦は本来なら下級部隊であった第4飛行師団指揮となったが、のちに第4航空軍解隊されたので尚武集団動員された。ルソン残った第2航空師団参謀長猿渡篤孝大佐率いられて、バレテ峠やサラクサク峠では「東京救おう」を合い言葉に、山下指示した徹底した拘束持久作戦戦って連合軍長い期間足止めしたが、激戦飢餓病気により多く将兵命を落とした。しかし、共に戦った第10師団鉄兵団)の将兵からは「オヤジ富永)が逃げたじゃないか」と嫌み言われることもあり、肩身の狭い思いをした者もいた。 詳細は「ルソン島の戦い」を参照富永第4航空軍台湾撤退目的は、台湾戦力回復させてルソン作戦支援するといったものであったが、自分らの無断撤退対す釈明追認手続き追われることとなり、その余裕もなく、また新たに指揮となった10方面軍からは冷遇されており、とても戦力回復ができる状況ではなくなっていた。それでも、第8飛行師団通信参謀の神は、師団参謀長岸本重一大佐からの「援助すべからず」という指示背いて、自らも第4航空軍司令部には批判的であったにも関わらず、「航空先輩同僚助けねばならぬ、家を失いた人は助けなければならぬ」と考えて宿舎手配し自動車準備した。そして、第4航空軍参謀らと特攻戦訓について研究しフィリピン失陥後に予想される沖縄戦での特攻作戦活かすこととした。第4航空軍独自の動きとしても、高級参謀松前参謀渋谷などによって1月25日に「第4航空軍作戦指導方針」を策定したが、第10方面軍からは十分な支援得られないため、それを進め手立てはなかった。参謀らはできうる限り戦力回復戦訓研究などを行っていたが、富永体調回復しつつあったものの、もはや作戦対す熱意失っており、第4航空軍司令官として何らかの動きをすることもなく、ただ処分待っているという状況であった富永は、神の厚意温泉地療養行っており、神は第4航空軍参謀との打ち合わせがてら、連日様に富永お見舞い行っていたが、そのこと知った参謀長岸本から不興をかって、1945年3月には沖縄の第32軍の航空参謀異動になった。やがて、富永体調回復し昼間から将官旗を掲げた軍用車後部座席芸者一緒に乗っている姿が目撃されている。富永第4航空軍司令部屏東にあったが、同じ屏東飛行場配置されていた陸軍第8戦隊の将兵富永らにあきれ果てており一兵卒でさえ敬礼しなかったという。 1月末から2月初めに陸軍中央部から航空作戦主任者が、第4航空軍戦力状況視察にきたが、これは第4航空軍解隊前提とした視察であった。このときの第4航空軍戦力は、台湾88機(稼働27機)、フィリピン56機(稼働17機)の稼働合計45機と、司令部要員56名、空中勤務223名、航空技術部61であった南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将台湾富永面会し第4航空軍現状つぶさに視察して大本営に「1.第四航空軍ニ対スル部下信頼ナシ 2.実質的司令部解消セリ 3.戦術航空軍司令部ヲ置ク理由ナシ 4.司令部解消スルモ大ナルナシ」との報告行っている。その報告のなかで「富永台湾撤退責任南方軍にある」「富永決戦呼号しながらその行動相応しくない」との指摘行っている。視察後の2月13日大本営第4航空軍司令部解体発令したが、富永については上部組織追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分待命とどまった。この処分厳正を欠くという批判多かったが、富永病状正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局判断から決定され処分であった富永待命後に台湾で2ヶ月以上も静養していたことによって、病状もかなり回復し精神状態落ち着いており、5月5日予備役編入処置がとられ、日本へと帰国した予備役編入については、富永待命になっているときに、人事局長に昇進していた額田台湾呼びつけて「東京帰ってもあばれんから、早く予備役帰してくれ」と要求し、さらに親しかった額田富永が、台湾撤退する前に何度も大本営提出していた辞任申請活かして、「マニラにおいて辞任」していたような工作依頼したとの推測もあるが、額田著書で、富永処分については直接関わっていないので詳細知らない記述している。

※この「台湾への撤退後」の解説は、「第4航空軍 (日本軍)」の解説の一部です。
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