台湾への撤退後
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「第4航空軍 (日本軍)」の記事における「台湾への撤退後」の解説
大本営の方針は第4航空軍にフィリピンと運命を共にさせるというものであり、司令部をはじめ、航空兵、地上要員問わずに全員玉砕させるつもりであったが、独断撤退した富永は、自分や司令部幕僚が台湾に到着後に、またも大本営の方針を破って、第4航空軍の搭乗員や整備兵といった航空要員も優先して台湾に脱出させるよう命じた。この輸送作戦には、空挺特攻作戦で生き残りとなった挺身飛行戦隊の輸送機10機、第30戦闘集団などの「九七式重爆撃機」8機などの大型機のほかにも、「九九式双軽爆撃機」、「一〇〇式司令部偵察機」など第4航空軍で人員を複数乗せることができる稼働機65機をかき集めて、ルソン島北部トゥゲガラオ飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った。台湾からの往路には、武器、弾薬、食料、薬品などを空輸して、第14方面軍に届けている。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、同様にフィリピンから航空要員を撤退させていた海軍が、3隻の駆逐艦を救援に出すことを聞きつけた富永が、これを一部利用させてほしいと要請して了承を得た。しかし、台湾を出てルソン島に向け航行中に「梅」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。 その後に富永は、同じく台湾に撤退していた海軍の第一航空艦隊司令部に参謀副長の山口槌夫少将を派遣して、司令長官の大西滝次郎中将に今後の海軍艦艇の利用を要請している。海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦バットフィッシュに待ち伏せされ、呂112と呂113が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは呂46のみであった。それでも、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大救出作戦となった。しかし、万朶隊の生き残りの佐々木友次伍長や、靖国隊として出撃しながら不時着して生還していた出丸一男中尉と木下顕吾軍曹ら、特攻で戦死したとして2階級特進となっていた一部の特攻隊員たちは台湾への撤退が許可されなかった。 ルソン島に置き去りとなった技術者以外の地上要員や佐々木ら搭乗員の一部のなかで、将校たちは口々に「敵前逃亡以外の何ものでもない。兵隊なら銃殺、将校なら自決。刑はそれ以外にあり得ない」「しかし、この臆病で卑怯な将軍には、もっともらしい理由が捏造されて、決して処刑されないだろう。何しろ、東條英機と親分子分だからな」などと陰口を言い合い、下士官や兵は「命惜しまぬ 予科練の…」という歌詞で知られる軍国歌謡「若鷲の歌」をもじり「命惜しさに富永が、台湾に逃げたその後にゃ」などという替え歌を歌って富永ら第4航空軍司令部を揶揄した。批判は富永個人ではなく、第4航空軍司令部全体に向けられており、脱出できなかった第2航空通信団司令部の参謀たちは、第4航空軍幕僚らを乗せた輸送機が撃墜されたという情報を聞くと「ざまぁ見ろ」とつぶやいていたという。置き去りにされた約1万の第4航空軍の残存将兵は、第14方面軍司令官山下の命令によって一旦は本来なら下級部隊であった第4飛行師団の指揮下となったが、のちに第4航空軍が解隊されたので尚武集団に動員された。ルソンに残った第2航空師団参謀長猿渡篤孝大佐に率いられて、バレテ峠やサラクサク峠では「東京を救おう」を合い言葉に、山下が指示した徹底した拘束持久作戦を戦って、連合軍を長い期間足止めしたが、激戦と飢餓や病気により多くの将兵が命を落とした。しかし、共に戦った第10師団(鉄兵団)の将兵からは「オヤジ(富永)が逃げたじゃないか」と嫌みを言われることもあり、肩身の狭い思いをした者もいた。 詳細は「ルソン島の戦い」を参照。 富永ら第4航空軍の台湾撤退の目的は、台湾で戦力を回復させてルソン作戦を支援するといったものであったが、自分らの無断撤退に対する釈明や追認手続きに追われることとなり、その余裕もなく、また新たに指揮下となった第10方面軍からは冷遇されており、とても戦力の回復ができる状況ではなくなっていた。それでも、第8飛行師団の通信参謀の神は、師団参謀長岸本重一大佐からの「援助すべからず」という指示に背いて、自らも第4航空軍司令部には批判的であったのにも関わらず、「航空の先輩同僚を助けねばならぬ、家を失いた人は助けなければならぬ」と考えて、宿舎を手配し、自動車も準備した。そして、第4航空軍参謀らと特攻の戦訓について研究し、フィリピン失陥後に予想される沖縄戦での特攻作戦に活かすこととした。第4航空軍独自の動きとしても、高級参謀の松前や参謀の渋谷などによって1月25日に「第4航空軍作戦指導方針」を策定したが、第10方面軍からは十分な支援を得られないため、それを進める手立てはなかった。参謀らはできうる限りで戦力回復や戦訓研究などを行っていたが、富永は体調は回復しつつあったものの、もはや作戦に対する熱意を失っており、第4航空軍司令官として何らかの動きをすることもなく、ただ処分を待っているという状況であった。富永は、神の厚意で温泉地で療養を行っており、神は第4航空軍参謀との打ち合わせがてら、連日の様に富永のお見舞いに行っていたが、そのことを知った参謀長岸本から不興をかって、1945年3月には沖縄の第32軍の航空参謀に異動になった。やがて、富永の体調も回復し、昼間から将官旗を掲げた軍用車の後部座席に芸者と一緒に乗っている姿が目撃されている。富永ら第4航空軍司令部は屏東にあったが、同じ屏東飛行場に配置されていた陸軍第8戦隊の将兵は富永らにあきれ果てており一兵卒でさえ敬礼しなかったという。 1月末から2月初めには陸軍中央部から航空作戦主任者が、第4航空軍の戦力状況に視察にきたが、これは第4航空軍の解隊を前提とした視察であった。このときの第4航空軍の戦力は、台湾に88機(稼働機27機)、フィリピンに56機(稼働機17機)の稼働機合計45機と、司令部要員56名、空中勤務者223名、航空技術部員61名であった。南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将も台湾で富永と面会し、第4航空軍の現状をつぶさに視察して大本営に「1.第四航空軍ニ対スル部下ノ信頼ナシ 2.実質的ニ司令部ハ解消セリ 3.戦術上航空軍司令部ヲ置ク理由ナシ 4.司令部解消スルモ大ナル害ナシ」との報告を行っている。その報告のなかで「富永の台湾撤退の責任は南方軍にある」「富永は決戦を呼号しながらその行動は相応しくない」との指摘も行っている。視察後の2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令したが、富永については上部組織の追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分は待命にとどまった。この処分は厳正を欠くという批判も多かったが、富永の病状は正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局の判断から決定された処分であった。富永は待命後に台湾で2ヶ月以上も静養していたことによって、病状もかなり回復し、精神状態も落ち着いており、5月5日予備役編入の処置がとられ、日本へと帰国した。予備役編入については、富永が待命になっているときに、人事局長に昇進していた額田を台湾に呼びつけて「東京に帰ってもあばれんから、早く予備役に帰してくれ」と要求し、さらに親しかった額田に富永が、台湾に撤退する前に何度も大本営に提出していた辞任申請を活かして、「マニラにおいて辞任」していたような工作を依頼したとの推測もあるが、額田は著書で、富永の処分については直接関わっていないので詳細は知らないと記述している。
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