台湾への無断撤退決定の経緯
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「第4航空軍 (日本軍)」の記事における「台湾への無断撤退決定の経緯」の解説
特攻機を送り続けることの過大な精神的負担で次第に心身ともに病んでいた軍司令官の富永は奇行が目立つようになり、また、寝込むことが多くなって従軍看護婦の介助を必要としたが、大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機を見送っていたことが徒となってデング熱も発症しており、その高熱によって感情的になることも多く、参謀らにあたりちらすようになっていた。特に不眠症による癇癪が酷くなり、睡眠を妨げるとして自分の宿舎の前の車両通行禁止とか、鳥の鳴き声が喧しいので、基地周辺の鳥を全部捕ってしまえなどという理不尽な命令をすることもあった。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部正美少将は、富永を後方に退避させ療養させることと共に、現地の残存兵力や状況を勘案し、これ以上フィリピンの山中に籠っていても、航空軍としては何の作戦行動をとることもできないと考え、第4航空軍司令部を台湾に撤退させて、戦力を立て直すことを計画して幕僚らと協議した。富永は酒を飲まないため、参謀たちは富永を除いて飲酒しながら協議を繰り返していたが、1月10日に富永不在の幕僚会議で「一部兵力をルソン島に残し、第14方面軍のための指揮連絡、捜索に任じせしめ、主力は台湾基地を活用して方面軍に強靱な航空支援をするほか手段がない」という結論に達した。12日に第14方面軍の参謀も兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳に意見具申し、松前、渋谷両参謀が台湾に飛んで第10方面軍に協力を要請した。 隈部らの計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するというものであったが、直属の第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけで正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍司令官の山下は、自分の命令通りに富永がマニラを撤退したことから、佐藤の報告を好意的に受け取って「富永はよくエチアゲに撤退してくれた。これで方面軍の面目も立つ、台湾の件は意見具申の電報を起案しておけ」と命じている。第4航空軍が正当な手続きを経て台湾に後退するためには、第14方面軍の指揮下から外れて、台湾を管轄する第10方面軍の指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍に了承の意図があっても、最終的には南方軍を経て大本営の許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退を続けている第4航空軍を、フィリピン決戦と運命を共にさせようという意図もあって、撤退の許可は簡単には出さないものと考えられた。 しかし、エチアゲにも連合軍の空襲が始まり、台湾とフィリピン間の制空権が風前の灯火となると、参謀長の隈部らは焦りだし、いずれ撤退の許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱の激しい富永を台湾に「視察」に行かせるという名目で脱出させることとした。富永のデング熱はさらに悪化して、40度の高熱にうなされていたが、隈部は心身ともに衰弱している富永に「第4航空軍は台湾軍司令官に隷属し、揚子江河口付近から台湾を経て比島に渡る航空作戦を指揮することとなった。ついては軍司令官は病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾に飛行していただきたい」という至急電が届いたと虚偽の報告をして、富永に台湾への撤退を同意させている。富永自身の記憶では、この隈部による口頭での報告が、富永が入浴中のときに行われたとされている。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを台湾撤退許可と解釈し、まずは富永を航空機で脱出させることとした。 台湾撤退に関しては、富永は戦後も一貫して「参謀長の隈部から虚偽の報告を受けた」としており、隈部の虚偽の報告を受けた上で「軍司令官は結局、参謀長の意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長の所見に屈従したのではない。当時の精神衰弱の状態において、ひとり幾度が熟考した上で決行したものである。」と自らの判断で行ったと述べている。隈部自身も、後日、日本に帰ってきたときに、陸軍省の人事局に訪れて「第4航空軍の不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時、心身ともに過労の極にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「(富永)自ら最終的にレイテに突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて、軍司令官に生き恥をかかせたのは実にこの私です」「当時の実情を聞いてください。この軍司令官の決意が、いつとはなしに次第に司令部内に知れたため、我も我もと軍司令官と行を共にしたい者が増えてきたのです」「そこで私はいろいろと苦心して、その源を断つために軍司令官の突入を漸く防ぎ、その後台湾に後退することとなったのです」「ところが、この苦心が却って仇となり、避難の因を作ったことは全く私の不覚でした。私は罪万死に値すると考えるので、内地の要職など思いもよらない。どんな下級職でも結構ですから、是非とも最も危険な場所にやって貰いたい」と懇願しており、富永の「虚偽の報告を受けた」とする回想を裏付けるものとなっている。 隈部の指摘通り、レイテ作戦終盤までは、富永はマニラを死守して送り出した特攻隊員の後を追うと決めていたが、精神的に衰弱してくると、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍は南部台湾を作戦に使用して良いとの命令を利用して、台湾への一時撤退を考えるようになった。台湾への撤退の理由としては、戦力の立て直しのほかに、第4航空軍の参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。武藤や稲田からの台湾撤退の提案も富永を後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して多数の特攻機を出撃させ、「マニラを離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し、多くの共鳴者もいたので、台湾への後退について、自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら参謀がルソン島に残っての航空作戦の続行の可能性について疑問視し、台湾への撤退を考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀も台湾への撤退を望んでいた。富永は軍司令官就任当初から「幕僚統帥を絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦を独断で進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらず、また、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務に長く就いてきたこともあって、形式に拘り枝葉末節のことにやかましかったので、「台湾に転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく「自分の軽率を恥じねばならぬ。自分の手落ちを認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって、富永を診察していた中留軍医部長は、「台湾に下がって爾後の作戦を講ずるというのが司令官の決意である」と富永の本心を見抜いていた。のちに、台湾で第4航空軍との連絡係をすることになり、富永や参謀たちと面談を重ねた第8飛行師団参謀の神直道中佐も、「航空軍四首脳(司令官、参謀長、参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」と、富永を含む第4航空軍司令部の共同謀議と考えていた。 富永が台湾への撤退を決意した翌日の1月15日に、富永は専属で看護をしてくれていた3名の日本赤十字社の従軍看護婦に「いよいよ今日でお別れだ。わしは台湾に行く。長い間ご苦労であった。ところでどうだ、一緒に台湾に行かないか。連れて行ってやるよ」とベッドの中から語りかけた。富永を専属で看護していた看護婦3名は第18陸軍病院に属し、1942年1月に内地を出発してすでに3年近く前線での病院勤務が続いており、そのことを不憫と思った富永が日本に帰してやろうとまずは台湾への撤退を呼びかけたもので、すでに専属副官代理の古山中尉に命じて手配も済ませていた。3名の看護婦は当然に日本に帰りたいと切望しており富永の厚意に感謝したが、多くの日本赤十字社の従軍看護婦の同僚を残して自分たちだけでは行けないと考えて、富永に丁重に断っている。富永は彼女らの覚悟を尊重して、一緒の撤退を撤回すると代わりに3名にそれぞれ贈り物をすると申し出て、熊倉看護婦と古島看護婦にはかつて東條英樹からもらった石清水八幡宮の守り刀の短刀を贈り、一番年下の入野看護婦は「身近なもの」と希望したので、愛用していた扇子を贈った。富永と親しく話すようになっていた入野は「何か書いて下さい」とお願いしたところ、富永は嬉しそうに快諾して入野の見ている前で扇子に「仁而愛」と達筆で書き込んだが、これは日本赤十字社看護婦の愛唱歌「婦人従軍歌」の一節であった。入野が感激していると富永は「世話になったな。本隊に、まちがいなく帰れるように、あとのことはよくたのんでやるから心配ない、これでお別れだ」と告げると固い握手をしたが、入野はこのときのことをいつまでも忘れなかったという。 熊倉ら従軍看護婦は富永が移動する場合に付き添うこともあったが、前線に不似合いな若い女性が富永と同行しているのを見た一部将兵が、熊倉以下の日本赤十字社の正規の従軍看護婦のことを、富永が身の回りの世話をさせるため「篤志看護婦として現地徴用した女」とか事実無根の悪評を広めて、後年、この悪評によって、富永が台湾に撤退するさいに女性(芸者)を連れていたなどとデマが広がることとなった。このデマについては、マニラを脱出して行き所を失った慰安婦を第14方面軍が保護し、そのうちの希望者に教育を施して臨時の従軍看護婦として雇用したが、戦後にその臨時従軍看護婦と日本赤十字社の正規の従軍看護婦とが混同されてしまったのも原因とされており、富永が「篤志看護婦」を現地徴用した事実もない。熊倉ら3名は、富永の手配もあってその後にバギオの陸軍病院に合流できたが、第14方面軍が山中に敗走したのでそれに同行し、大変な労苦を経験しながらどうにか生存して終戦の日を迎えることが出来た。しかし、フィリピンに派遣された22名の従軍看護婦の同僚のうち、生存して日本に帰国できた者は半分の11名に過ぎなかった。
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