台湾への無断撤退決定の経緯とは? わかりやすく解説

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台湾への無断撤退決定の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 02:32 UTC 版)

第4航空軍 (日本軍)」の記事における「台湾への無断撤退決定の経緯」の解説

特攻機送り続けることの過大な精神的負担次第心身ともに病んでいた軍司令官富永奇行が目立つようになり、また、寝込むことが多くなって従軍看護婦介助を必要としたが、大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機見送っていたことが徒となってデング熱発症しており、その高熱によって感情的になることも多く参謀にあたりちらすようになっていた。特に不眠症による癇癪酷くなり、睡眠妨げるとして自分宿舎の前の車両通行禁止とか、鳴き声喧しいので、基地周辺全部捕ってしまえなどという理不尽な命令をすることもあった。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長隈部正美少将は、富永後方退避させ療養させることと共に現地残存兵力状況勘案しこれ以上フィリピン山中籠っていても、航空軍としては何の作戦行動をとることもできない考え第4航空軍司令部台湾撤退させて、戦力立て直すことを計画して幕僚らと協議した富永は酒を飲まないため、参謀たちは富永除いて飲酒しながら協議繰り返していたが、1月10日富永不在幕僚会議で「一部兵力ルソン島残し第14方面軍のための指揮連絡捜索任じせしめ、主力台湾基地活用して方面軍強靱航空支援をするほか手段がない」という結論達した12日第14方面軍参謀兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳意見具申し、松前渋谷参謀台湾飛んで10方面軍協力要請した。 隈部らの計画第4航空軍台湾撤退させた後に、戦力補充してフィリピン支援するというものであったが、直属第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけ正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍司令官山下は、自分命令通り富永マニラ撤退したことから、佐藤報告好意的に受け取って富永はよくエチアゲ撤退してくれた。これで方面軍面目も立つ、台湾の件は意見具申電報起案しておけ」と命じている。第4航空軍正当な手続き経て台湾後退するためには、第14方面軍指揮下から外れて台湾管轄する10方面軍指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍了承意図があっても、最終的に南方軍経て大本営許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退続けている第4航空軍を、フィリピン決戦運命を共にさせようという意図もあって、撤退許可簡単に出さないものと考えられた。 しかし、エチアゲにも連合軍空襲始まり台湾フィリピン間の制空権風前の灯火となると参謀長の隈部らは焦りだし、いずれ撤退許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱激し富永台湾に「視察」に行かせるという名目脱出させることとした。富永デング熱はさらに悪化して40度の高熱うなされていたが、隈部は心身ともに衰弱している富永に「第4航空軍台湾軍司令官隷属し揚子江河口付近から台湾経て比島に渡る航空作戦指揮することとなった。ついては軍司令官病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾飛行していただきたい」という至急電が届いた虚偽報告をして、富永台湾へ撤退同意させている。富永自身記憶では、この隈部による口頭での報告が、富永入浴中のときに行われたとされている。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目台湾行き大本営申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認電文届いたので、これを台湾撤退許可解釈し、まずは富永航空機脱出させることとした。 台湾撤退に関しては、富永戦後一貫して参謀長の隈部から虚偽報告受けた」としており、隈部の虚偽報告受けた上で軍司令官結局参謀長意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長所見屈従したのではない。当時精神衰弱の状態において、ひとり幾度熟考した上で決行したのである。」と自らの判断行った述べている。隈部自身も、後日日本帰ってきたときに、陸軍省人事局訪れて第4航空軍不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時心身ともに過労にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「(富永)自ら最終的にレイテ突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて軍司令官生き恥をかかせたのは実にこの私です」「当時実情聞いてください。この軍司令官決意が、いつとはなしに次第司令部内に知れたため、我も我もと軍司令官と行を共にしたい者が増えてきたのです」「そこで私はいろいろと苦心して、その源を断つために軍司令官突入漸く防ぎその後台湾後退することとなったのです」「ところが、この苦心が却って仇となり、避難の因を作ったことは全く私の不覚でした。私は罪万死に値する考えるので、内地要職など思いもよらない。どんな下級職でも結構ですから、是非とも最も危険な場所にやって貰いたい」と懇願しており、富永の「虚偽報告受けた」とする回想裏付けるものとなっている。 隈部の指摘通りレイテ作戦終盤までは、富永マニラ死守して送り出した特攻隊員後を追う決めていたが、精神的に衰弱してくると、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍南部台湾作戦使用して良いとの命令利用して台湾へ一時撤退考えようになった台湾へ撤退理由としては、戦力立て直しのほかに、第4航空軍参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという。武藤稲田からの台湾撤退提案富永後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない最後一戦本官特攻する」と訓示して多数特攻機出撃させ、「マニラ離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し多く共鳴者もいたので、台湾へ後退について、自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら参謀ルソン島残って航空作戦続行可能性について疑問視し、台湾へ撤退考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀台湾へ撤退望んでいた。富永軍司令官就任当初から「幕僚統帥絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦独断進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらずまた、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務長く就いてきたこともあって、形式拘り枝葉末節のことにやかましかったので、「台湾転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく自分軽率恥じねばならぬ自分の手落ち認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって、富永診察していた中留軍医部長は、「台湾下がって爾後作戦講ずるというのが司令官決意である」と富永本心見抜いていた。のちに、台湾第4航空軍との連絡係をすることになり、富永参謀たちと面談重ねた第8飛行師団参謀神直道中佐も、「航空軍首脳(司令官参謀長参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」と、富永を含む第4航空軍司令部共同謀議考えていた。 富永台湾へ撤退決意した翌日1月15日に、富永専属看護をしてくれていた3名の日赤十字社従軍看護婦に「いよいよ今日でお別れだ。わしは台湾に行く。長い間ご苦労であった。ところでどうだ、一緒に台湾行かないか。連れて行ってやるよ」とベッドの中から語りかけた。富永専属看護していた看護婦3名は第18陸軍病院属し1942年1月内地出発してすでに3年近く前線での病院勤務続いており、そのこと不憫思った富永日本帰してやろうとまずは台湾へ撤退呼びかけたもので、すでに専属副官代理古山中尉命じて手配済ませていた。3名の看護婦当然に日本帰りたい切望しており富永厚意感謝したが、多く日本赤十字社従軍看護婦同僚残して自分たちだけでは行けない考えて富永丁重に断っている。富永彼女ら覚悟尊重して一緒撤退撤回する代わりに3名にそれぞれ贈り物をする申し出て熊倉看護婦古島看護婦にはかつて東條からもらった石清水八幡宮守り刀短刀贈り、一番年下入野看護婦は「身近なもの」と希望したので、愛用していた扇子贈った富永親しく話すようになっていた入野は「何か書いて下さい」とお願いしたところ、富永嬉しそうに快諾して入野見ている前で扇子に「仁而愛」と達筆書き込んだが、これは日本赤十字社看護婦愛唱歌婦人従軍歌」の一節であった入野感激していると富永は「世話になったな。本隊に、まちがいなく帰れるように、あとのことはよくたのんでやるから心配ない、これでお別れだ」と告げると固い握手をしたが、入野はこのときのことをいつまで忘れなかったという。 熊倉従軍看護婦富永移動する場合付き添うこともあったが、前線不似合いな若い女性富永同行しているのを見た一部将兵が、熊倉以下の日本赤十字社正規従軍看護婦のことを、富永身の回り世話をさせるため「篤志看護婦として現地徴用した女」とか事実無根悪評広めて後年、この悪評によって、富永台湾撤退するさいに女性芸者)を連れていたなどとデマ広がることとなった。このデマについては、マニラ脱出して行き所失った慰安婦第14方面軍保護しそのうち希望者に教育施して臨時従軍看護婦として雇用したが、戦後にその臨時従軍看護婦日本赤十字社正規従軍看護婦とが混同されてしまったのも原因とされており、富永が「篤志看護婦」を現地徴用した事実もない。熊倉ら3名は、富永の手配もあってその後バギオ陸軍病院合流できたが、第14方面軍山中敗走したのでそれに同行し大変な労苦経験しながらどうにか生存して終戦の日迎えることが出来た。しかし、フィリピン派遣され22名の従軍看護婦同僚のうち、生存して日本に帰国できた者は半分11名に過ぎなかった。

※この「台湾への無断撤退決定の経緯」の解説は、「第4航空軍 (日本軍)」の解説の一部です。
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