台湾への転進とは? わかりやすく解説

台湾への転進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:46 UTC 版)

大西瀧治郎」の記事における「台湾への転進」の解説

1月6日夜、大西クラーク地区の全航空部隊指揮官対し、「この上クラーク西方山地帯移動し地上作戦果敢に実施し最後の一兵まで戦い抜かん」と訓示した。航空機消耗し尽くした大西第一航空艦隊司令部連合軍地上部隊迎え撃つための陸戦部隊化について協議していたが、連合艦隊より第一航空艦隊台湾転進せよとの命令届いた躊躇する大西猪口参謀が「とにかく、大西その人生かしておいて仕事させようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したに対して大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」とった。第26航空戦隊司令官杉本丑衛少将が「あとは引き受けましたから、長官命令に従ってくださいと言われ大西台湾を出る決意をした。 1月10日大西らはクラーク中飛行場から台湾へ一式陸上攻撃機脱出した。この時、763空司令佐多直大大佐大西脱出抗議した221空飛行長・相生高秀少佐当時現地聞いた話では、佐多が「昨夜訓示では、長官も山に籠って陣頭指揮されるものとばかり思っておりました総指揮官たるものが、このような行動取られることは指揮統率誠に残念です」と抗議する大西が「何を生意気言うな」と佐多平手打ちしたという。一方副官門司によると、出発直前大西佐多呼びつけ大西向かい合った佐多何を言ったのか門司には聞き取れなかったが、大西は「そんなことで戦ができるか」と佐多殴りつけ、佐多は「分かりましたと言い大西佐多の顔を少し見てから滑走路向かったという。残留部隊指揮官一人でもある相生少佐は、中央の指示での撤退といって大西長官決断どのようにでもなったと思われこのような切迫した戦況の時こそ、指揮官決断の時であり、その進退その人生涯評価左右するものと述べ、また佐多大佐胸中は、多く特攻行った地で最後まで指揮執るのが特攻隊責任を果たす道であり、英霊慰めるゆえんではないかという思い去来し大西ともあろう方がどうしてこのような行動を取るのか、今まで全幅の信頼裏切られたような失望と何とか翻意させようとする真情とが交錯してたまらなかったのであろう述べている。大西らは夜明け前には無事に台湾高雄飛行場到着したが、その10分後にはアメリカ軍艦載機多数来襲して高雄基地激し空襲があり、もしくは大西らの航空機を敵の空襲間違えた味方機銃射撃を受け、のちに大西は「あのとき撃ち落されていたら、いまごろこんな苦労をしなくてよかったのになぁ」とよく述べていた。残った兵士らは、26航戦司令官杉本少将指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦戦ったが、大西残してきた兵士らを常に気にしており、台湾転進後も常々「いつか俺は、落下傘クラーク山中降下し杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と幕僚らに話していた。 台湾転進しても第一航空艦隊特攻継続し残存兵力台湾方面航空隊わずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。台南海軍航空隊中庭開催され命名式で大西は「この神風特別攻撃隊出て万一負けたとしても、日本亡国ならない。これが出ない負けた真の亡国になる」と訓示したが、幕僚らは「負けても」という表現不思議に感じた。この訓示聞いていた中島は、戦後になってから、この時点大西目先の戦争勝敗ではなく敗戦した場合日本悠久性を考えていたのだろうと気が付いたという。大西この頃から沈黙時間長くなった代わりに死について語ることが多くなった。ある日イタリア戦犯ニュース話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃参画し、特攻出して若いものを死なせ悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている。 フィリピンでは協力関係にあった陸軍第4航空軍司令部が、大本営などの承認もなくフィリピンから台湾撤退しており非難されていた。司令官富永置き去りにしてきた将兵を少しでも救出しよう大西海軍艦艇利用要請してきたが、大西はこれを快諾している。3隻の駆逐艦置き去りとなっていた陸海軍将兵救出するため台湾出港したが、ルソン島に向け航行中「梅」空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した海上での救出は困難と考えた海軍潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦準備したが、作戦察知したアメリカ軍潜水艦バットフィッシュ待ち伏せされ呂112呂113撃沈されて、ルソン島到着し陸海軍将兵救出成功したのは呂46のみであった。それでも、航空機ピストン輸送呂46救出され将兵相当数上り日本軍航空史上で未曾有の救出作戦となった1945年4月大西台湾から東京帰ってきたとき、自宅空襲焼失し防空壕避難していた妻淑恵を訪ねたが、大西来訪知って多く近所の人たちが集まってきて「ご無事でなによりでした」などと声をかけてきた。大西持っていた氷砂糖集まった近所の人たちに配りながら、「私は軍人として支那大陸ほか外地攻撃し爆弾おとして建物焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、(自分の)家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれおしまいになった。これは、私ども軍人責任であります本当に申しわけありません」と深々と頭を下げている。大西はこの言葉通り明確に軍人」と「民衆」を分けて考えていたが、この「軍人」という意識この後さらに強化されて、降伏流れとなったとき「若い特攻隊員死んでいったのに」「われわれは、まだ、力を出し切っていない」という考え至り、これが「本土徹底抗戦論」の原点になったという指摘もある。 大西東京帰ってきてから妻淑恵と一緒に暮らすことはなかった。児玉の輩下の吉田彦太郎が「週に一度奥様の手料理食べてどうですか」とたずねたところ、大西は目に涙をうかべながら「そんなこと、言ってくれるな、君、家庭料理どころか特攻隊員家庭生活知らない死んでいったんだよ」と言って拒んでいる。妻淑恵も大西身辺整理案じて「私も一緒に官舎住みましょうか?」とたずねたことがあったが、大西は「軍人でない家のひとも、焼け出されて親子ちりぢりになって暮らしているじゃないか。まして、この俺に妻とともにむようなことができるか」と断っている。このあとも妻淑恵は、軍令部次長官舎起居する大西同居することはなく、防空壕生活から、大西懇意であった児玉の家に世話になり、終戦時には東宝映画株式会社常務取締役増谷麟の家に居住していた。

※この「台湾への転進」の解説は、「大西瀧治郎」の解説の一部です。
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