台湾への転進
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1月6日夜、大西はクラーク地区の全航空部隊の指揮官に対し、「この上はクラーク西方山岳地帯に移動し、地上作戦を果敢に実施し最後の一兵まで戦い抜かん」と訓示した。航空機を消耗し尽くした大西ら第一航空艦隊司令部は連合軍地上部隊を迎え撃つための陸戦部隊化について協議していたが、連合艦隊より第一航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」とった。第26航空戦隊司令官杉本丑衛少将が「あとは引き受けましたから、長官は命令に従ってください」と言われた大西は台湾を出る決意をした。 1月10日、大西らはクラーク中飛行場から台湾へ一式陸上攻撃機で脱出した。この時、763空司令佐多直大大佐は大西の脱出に抗議した。221空飛行長・相生高秀少佐が当時現地で聞いた話では、佐多が「昨夜の訓示では、長官も山に籠って陣頭指揮されるものとばかり思っておりました。総指揮官たるものが、このような行動を取られることは指揮統率上誠に残念です」と抗議すると大西が「何を、生意気言うな」と佐多に平手打ちしたという。一方、副官の門司によると、出発直前の大西が佐多を呼びつけ、大西と向かい合った佐多が何を言ったのか門司には聞き取れなかったが、大西は「そんなことで戦ができるか」と佐多を殴りつけ、佐多は「分かりました」と言い、大西は佐多の顔を少し見てから滑走路に向かったという。残留部隊指揮官の一人でもある相生少佐は、中央の指示での撤退といっても大西長官の決断でどのようにでもなったと思われ、このような切迫した戦況の時こそ、指揮官の決断の時であり、その進退はその人の生涯の評価を左右するものと述べ、また佐多大佐の胸中は、多くの特攻を行った地で最後まで指揮を執るのが特攻隊に責任を果たす道であり、英霊を慰めるゆえんではないかという思いが去来し、大西ともあろう方がどうしてこのような行動を取るのか、今までの全幅の信頼が裏切られたような失望と何とか翻意させようとする真情とが交錯してたまらなかったのであろうと述べている。大西らは夜明け前には無事に台湾高雄飛行場に到着したが、その10分後にはアメリカ軍艦載機多数が来襲して高雄基地に激しい空襲があり、もしくは大西らの航空機を敵の空襲と間違えた味方の機銃射撃を受け、のちに大西は「あのとき撃ち落されていたら、いまごろこんな苦労をしなくてよかったのになぁ」とよく述べていた。残った兵士らは、26航戦司令官・杉本少将の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らを常に気にしており、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と幕僚らに話していた。 台湾に転進しても第一航空艦隊は特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。台南海軍航空隊の中庭で開催された命名式で大西は「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる」と訓示したが、幕僚らは「負けても」という表現を不思議に感じた。この訓示を聞いていた中島は、戦後になってから、この時点で大西は目先の戦争の勝敗ではなく、敗戦した場合の日本の悠久性を考えていたのだろうと気が付いたという。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている。 フィリピンでは協力関係にあった陸軍の第4航空軍司令部が、大本営などの承認もなくフィリピンから台湾に撤退しており非難されていた。司令官の富永は置き去りにしてきた将兵を少しでも救出しようと大西に海軍艦艇の利用を要請してきたが、大西はこれを快諾している。3隻の駆逐艦が置き去りとなっていた陸海軍の将兵を救出するため台湾を出港したが、ルソン島に向け航行中に「梅」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。海上での救出は困難と考えた海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦バットフィッシュに待ち伏せされ、呂112と呂113が撃沈されて、ルソン島に到着し陸海軍の将兵の救出に成功したのは呂46のみであった。それでも、航空機のピストン輸送と呂46に救出された将兵は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大救出作戦となった。 1945年4月、大西が台湾から東京に帰ってきたとき、自宅が空襲で焼失し防空壕に避難していた妻淑恵を訪ねたが、大西の来訪を知って多くの近所の人たちが集まってきて「ご無事でなによりでした」などと声をかけてきた。大西は持っていた氷砂糖を集まった近所の人たちに配りながら、「私は軍人として支那大陸ほか外地を攻撃し、爆弾をおとして、建物を焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、(自分の)家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれておしまいになった。これは、私ども軍人の責任であります。本当に申しわけありません」と深々と頭を下げている。大西はこの言葉通り、明確に「軍人」と「民衆」を分けて考えていたが、この「軍人」という意識はこの後さらに強化されて、降伏の流れとなったとき「若い特攻隊員が死んでいったのに」「われわれは、まだ、力を出し切っていない」という考えに至り、これが「本土徹底抗戦論」の原点になったという指摘もある。 大西は東京に帰ってきてから妻淑恵と一緒に暮らすことはなかった。児玉の輩下の吉田彦太郎が「週に一度は奥様の手料理を食べてはどうですか」とたずねたところ、大西は目に涙をうかべながら「そんなこと、言ってくれるな、君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ」と言って拒んでいる。妻淑恵も大西の身辺の整理を案じて「私も一緒に官舎に住みましょうか?」とたずねたことがあったが、大西は「軍人でない家のひとも、焼け出されて、親子ちりぢりになって暮らしているじゃないか。まして、この俺に妻とともに住むようなことができるか」と断っている。このあとも妻淑恵は、軍令部次長官舎で起居する大西と同居することはなく、防空壕生活から、大西が懇意であった児玉の家に世話になり、終戦時には東宝映画株式会社常務取締役増谷麟の家に居住していた。
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