国民党による「法幣」発行
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「中華民国期の通貨の歴史」の記事における「国民党による「法幣」発行」の解説
1928年(民国17年)、中国国民党は北伐を完成させ、南京に統一政権を打ち立て、それまでの曖昧だった中央と地方との財政的な権限を整理し直し、統一的な国民経済の形成をめざす改革を実行に移していくことになる。経済再建のための全国経済会議、財政会議を開いてまとまった政策を打ち出した。この過程で、上海に中央銀行が設立され、銀行券の発行を始める。 詳細は「中華民国中央銀行#歴史」を参照 しかし翌1929年10月24日、ニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」をきっかけに大恐慌が勃発し、世界の金本位制の崩壊とともに、国民党政府が受け継いだ中国伝統の銀本位制は崩壊の危機にさらされた。それまで中国の通貨の基本は銀で、紙幣は中央銀行がなかったため民間の商業銀行がそれぞれ独自に発行しており、そのため発行元銀行の信用度によって額面と流通価値が変動するのが普通であった。 「銀本位制#中国」および「銀元#銀錠・銀両」も参照 大恐慌初期は、恐慌に伴う世界的な銀価格の低下が、中国の外国為替レートの切り下げと同じ意味をもち、輸出促進に働き、中国にプラスに作用した。しかしイギリスの金本位制離脱後、この恩恵は喪われ、1931年秋ごろから大恐慌の深刻な影響が中国にもあらわれた。農産物をはじめとする諸物価が下落し、工場の倒産や商店の閉鎖が相次ぎ、銀を本位とする複雑な通貨体制の限界は誰の目にも明らかだった。1934年にはアメリカの銀買い上げ政策による国際的な銀価格の高騰によって、好況を呈していた上海経済の転落が決定的なものになる。銀価格の高騰のために今度は中国国内から海外に銀が流出し、上海の資産価格が落ち込みバブルが崩壊する。同時に繊維製品の輸出の落ち込みと担保価値の下落により債務返済不能に陥る企業が増加し、金融機関の破たんも相次ぎ、上海を中心とした深刻な金融恐慌に発展した。このような不安定な状況に終止符を打つためには、銀価格の国際的な変動により国内の金融政策が大きく左右されるという状況の改善しかなかった。 1933年(民国22年)には、秤量単位である「銀両」が廃止され、銀本位通貨の単位が「元」に統一されることにより(廃両改元)、「幣制改革」以降の管理通貨制度に道筋がつけられることになった。1935年11月、国民党の財政責任者である宋子文(宋慶齢・孫文未亡人の弟、宋美齢・蔣介石夫人の兄であり、彼女ら「宋家三姉妹」を含む宋一族の一員である)は銀貨流通停止と全国統一通貨である「法幣」発行に踏み切った。現銀(銀貨・銀塊)の貨幣としての流通を禁じて、「中国銀行」、「中央銀行」、「交通銀行」(現・兆豊国際商業銀行および交通銀行)と「中国農民銀行(現・合作金庫銀行)」の政府系4銀行の発行する銀行券のみが法定通貨すなわち「法幣」と定められた。この通貨改革を英米は後押しをし、「法幣」の印刷も英米が担当した。とくに英国は財政専門家リース・ロスを駐華英国大使館の経済顧問に任命し、改革の実現に協力した。「法幣」は、イギリス・ポンドにリンクされており(1元=1シリング2.5ペンス)、同時に現銀はアメリカに売り渡され、「法幣」の安定のための基金として積み立てられた。通貨の統一は全国的な経済政策を進める上でも、近代国家の体裁を整えるためにも必要なことであったが、この結果元はドルとポンドの支配下に置かれることを意味するとともに、中国の庶民は現銀というインフレから身を守るための手段を奪われることでもあった。 詳細は「法幣#発行」および「銀元#廃両改元」を参照 「中国銀行 (中華人民共和国)#沿革」も参照 この幣制改革に対しては、日本政府は協力を拒んだ。日本は1932年(民国21年=昭和7年)に「満州国」を成立させており、これと地続きの華北地方を国民党支配から切り離す「北支分離工作」を展開していたので、国民党による中国通貨統一事業は邪魔だったのである。1935年9月上旬には、英国はリース・ロスと広田弘毅・重光葵といった日本外務省側の人物と会談をさせた。ここでリース・ロスは、「中国に有力な銀行を興し、これに通貨発行権を独占させる。通貨はポンドにリンクして銀本位から離脱させる。その一方で、中国は「満州国」を承認し、「満州国」は中国の負債中の適当な割合を分担する」という案を提示した。しかし、日本の外務省側はこの案に乗らなかった。 同年11月4日、中国は幣制改革を断行し、華北地域の有する現銀が南方の国民政府のもとに送られることになった。日本側はこの現銀の南送により華北経済の自治的側面が損なわれると考え、日系6銀行は手持ちの銀引渡しを拒否することに決した。そこで、イギリス政府は国王命令を出して、中国にあるイギリス人居住者に対して法幣改革への全面協力を義務付け、香港上海銀行(HSBC)など英国系銀行にも銀の引き渡しを命令した。アメリカは、1935年11月に米中銀協定を締結し、中国は回収した銀をアメリカに売却して、米ドル、英ポンドなど外貨による通貨安定基金の原資を得た。ここに通貨面でのA(アメリカ)B(イギリス)C(中国)連合が成立した。 「ABCD包囲網#概要」も参照 一方で、この1935年という年は、中国共産党が国民党軍に追われて長征を敢行中であり、「抗日救国」を全国民に呼びかけた「八・一宣言」を発表し、抗日の世論が全土に広がっていた。このように中国史上で初めての管理通貨体制への移行は、短期間で成功した。「法幣」が中華民国の単一の通貨となり、南京政府の支配地域では「法幣」が行きわたり、対外的に安定した「元」を基礎に、中国経済は1936年に、農作物の豊作と相まって顕著な回復を示した。幣制改革の成功によって、中央政府の統治力はかつてないほど強くなった。国民政府は、軍事的統一・政治的統一に加えて、金融・通貨の統一にも成功した。 しかしこの時、すでに「満洲帝国」という名に変わってしまっていた東北地域については、「法幣」が通用することはなかった。この「国」では「日満経済ブロック」の掛け声のもと、国民政府の幣制改革と時を同じくして、満州中央銀行が発行する「国幣」と呼ばれる通貨による「幣制改革」が行われ、日本円との等価が声明されていたのであった。 詳細は「満州中央銀行#概要」および「満州国圓#概要」を参照
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