国民党のエリート
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上海南洋大学電気科を卒業後、1922年(民国11年)に中国国民党に加入する。翌年に黄埔軍官学校が開校すると、同校教授部の電訊・政治教官として招聘された。1925年(民国14年)2月、軍校教導第1団党代表に任ぜられ、第1次東征に参加している。同年4月、軍校内右派の孫文主義学会で発起人の1人となった。10月、国民革命軍第1軍第2師党代表に任ぜられ、第2次東征に従軍した。 1926年(民国15年)1月、中国国民党第2期候補中央執行委員に選出された(以後、第3期、第4期でも同様)。同年7月、蔣介石が北伐開始を宣誓すると、繆斌は総予備隊政治部主任・第1軍副党代表・東路軍総指揮部政治部主任・軍需処処長の要職を兼任することになっている。翌年4月、国民革命軍総司令部軍需局中将局長に昇進し、10月には国民政府軍事委員会経理処処長に任ぜられた。 1928年(民国17年)1月、国民革命軍総司令部経理処処長にも任ぜられる。3月、江蘇省政府委員に任ぜられ、11月には同省政府民政庁庁長も兼ねた。8月には、国民党5中全会で中央執行委員に補充選出されている。このほか同年には、国民党党務委員会委員、中央民衆訓練委員会常務委員、軍事委員会海陸軍法規編纂委員会特別委員にも任ぜられた。同時期、国民政府立法院立法委員に任命された。 しかし1931年(民国20年)、汚職事件により弾劾され、各職を辞任して日本に赴いている。ただしこの辞任については、日ごろから私淑していた胡漢民が蔣介石により監禁されたことに反発してのもの、との説もある。帰国後の1933年(民国22年)に『武徳論』という書物を著し、武力こそが道徳であり、軍人は服従こそが天職である、との主張を唱えた。
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