国民党からの除名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:17 UTC 版)
しかし、劉震寰の桂軍は軍紀が弛緩していたため評判が悪く、孫文も不満を抱いた。その結果、孫は新桂系の李宗仁・白崇禧・黄紹竑を支持し、これらに広西省を委ねようとした。劉はこれに対抗しようと、1925年(民国14年)から、雲南の唐継尭と共謀し、広西省を挟撃してこれを奪おうと図った。しかし大元帥府はこの動きを察知し、広東軍第1師師長李済深の軍が劉の動きを封じた。雲南軍は広西省に進攻したが、新桂系軍に大敗して退却し、計画は失敗に終わる。 孫文死後の1925年(民国14年)5月、唐継尭、陳炯明、段祺瑞や香港総督など、反国民党勢力の支援を受けつつ、劉震寰は楊希閔とともに香港で反乱を計画し、広州で実行に移した。しかし、許崇智軍や黄埔軍官学校学生軍の反撃に遭って敗北し、劉と楊は香港へ逃走した。国民党を除名された劉はその後も再起を図ったが、ことごとく失敗した。
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