銀錠・銀両とは? わかりやすく解説

銀錠・銀両

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/02/05 07:40 UTC 版)

銀元」の記事における「銀錠・銀両」の解説

中国では昔から銅銭法定通貨とされてきたが、銅銭の不足と経済発達によって銅銭が不足(銭荒)となり、宋元以後には紙幣や銀(銀地金銀製品)が通貨替わり用いられるようになり、明清においても銅銭鋳造され続けたものの、実際には銀が通貨主導的な地位占めようになった。ただし、明王朝銀貨鋳造を行わなかったために実際に銀を通貨として用い場合には、銀錠呼ばれる銀の固形秤量貨幣として用いられ、銀の重量そのまま価値として認められていた。すなわち、両を基本的な単位として10分の1を銭、更にその10分の1を分とする重量体系そのまま貨幣の単位として採用されていたのである一方大航海時代以後スペイン植民地メキシコを含む)などの海外銀貨洋銀)が大量に中国流入し中国既存銀地金銀製品と同様に秤量貨幣として扱われた。この傾向アヘン戦争以後に一層拍車かかった当時代表的なものとしては、スペインのスペイン・カルロス・ドル(本洋)、メキシコメキシコ・ドル洋)、アメリカ米国貿易銀美国洋)、日本明治政府貿易銀日本竜洋)、イギリス領香港香港ドル香港鋳造の香洋とイギリス鋳造の站人洋がある)、フランス領インドシナピアストル安南洋)などが知られていた。 一方、清でも1792年チベット限定出され乾隆宝蔵はじめとして台湾福建など辺境の地域での銀貨発行事例はあったものの、中国本土においては1890年張之洞提言によって広東造幣廠が建設され、清は日本同様に「圓」を単位とした銀圓銀元、以下「銀元」と用いる)銀貨光緒元宝発行踏み切ったがこれは貿易用の計数貨幣洋銀合わせて1枚=0.724両・品位902定められていた)であり、国内においては貨幣価値決定権握っていたのは依然として各地存在していた銭荘呼ばれる両替商と彼らによる牙行であった。彼らは地域通用する銀錠への交換手持ち銀地金他地域銀錠銀貨からの改鋳を含む)の際に徴収する手数料から得られる収益経営基盤としていたために、交換手数料廃止につながる統一的な計数貨幣発行には強く反対していたのであるその後1910年幣制則例(0.72両・品位900の「大清銀幣」の発行)、辛亥革命後1914年国幣条例(0.72両・品位900純銀含有23.97gの俗称袁世凱像幣」の発行、ただし実際品位890・純銀含有23.61gにとどまる)を出して国内でも通用する通貨改革行おうとしたが、辛亥革命以後中国国内においては大きな変化見られなかった。

※この「銀錠・銀両」の解説は、「銀元」の解説の一部です。
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