銀銭と銅銭の交換率
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:24 UTC 版)
『続日本紀』の和銅元年の条項には銀銭と銅銭の交換率を示す記述は見られない。一方13年後の養老5年1月29日(721年3月1日)に、初めて銀銭1枚を以って銅銭25枚に当てると交換比率が公定される。 また、発行翌年の和銅2年3月27日(709年5月11日)の条に「その物の価、銀銭四文以上は即ち銀銭を用いよ、その価三文以下は皆銅銭を用いよ。」とある。『大日本貨幣史』は、その意味が理解不能であり「銀銭四文以上は」は「銅銭四文以上は」の誤記と解釈して、銅銭四枚で銀銭一枚に当るとした。 西村眞次(1933)、栄原永遠男(1993)および滝沢武雄(1996)は、大平元寳と萬年通寳の公定交換率と同じく、和同開珎銀銭と銅銭も同じ一〇対一の価格を与えられたと考えた。 その後、栄原氏は、養老五年の公定交換率の一対二五よりは高かったのではないかと推定した。同氏はさらに銅銭が安かったと推定している。 しかし、今村啓爾(2001)は、銀銭と銅銭は当初、等価値に定められたのではないかと推定する。等価値に定められたならば銀銭1文も銅銭1文も1枚未満の端数は無く銀銭4枚の一つ下が銅銭3枚であり、和銅2年の条は自然な書き方である。また、交換率が例えば1対25と今日の常識から考えられる様に銅銭の価格が低く設定されているならば、補助貨幣的に使用されたはずであり数多くの銅銭を必要とし、古和同銅銭(初期の不隷開)は銀銭の1/10以下と現存数が少ない事実と矛盾する。対し、等価値ならば受け取るものも居らず不人気な銅銭が圧倒的に少ないことと調和的である。銀銭と銅銭が全く同型に造られたことは等価値の公定価格を示唆する。 養老5年の条は、廃止されたはずの銀銭を持出して、銀1両 = 銀銭4枚 = 銅銭100枚と公定している。銀銭は法定通貨である限りは量目の大小に関わらず1枚が銀1/4両の名目価値を与えられるが、廃止されれば地金価値に低落したものと考えられる。まず地金価格に下落した銀銭の価格復活、そして律令政府の目論見も虚しく公定価格から著しく乖離し下落した銅銭の価格引上げをねらって銅銭の価格維持に努めたものと思われる。しかし、銅銭の実勢価格の下落は留まることなく、銅銭の円滑な流通を第一の目標に置き、実勢レートに合す形で翌年養老6年2月27日(722年3月18日)の銀1両 = 銅銭200枚と、銅銭価格の切下げに至ったと推定される。 和同開珎という極度に高額に設定された名目貨幣の発行の目的は、平城京造営という大事業の費用の捻出にあったともされるが、銅銭が思うように流通せず目標が達成できたかは不明である。
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