銀鉱の発見と銀山の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 06:17 UTC 版)
現在、銀山平と呼ばれているこの地は枝折峠の奥にある秘境の地で、文禄年間より小出島・湯之谷郷の住民によって、川鱒採りやゼンマイ採りが行われていた。 1641年(寛永18年)に湯之谷郷折立の百姓・源蔵が赤川表(現・只見川)で銀の垂柱を発見した。源蔵の発見した銀鉱のことは、高田城主・松平光長へと知らされ、大老・酒井忠勝の命により銀山開発命令が高田藩に下された。 当時の只見川上流はあまりの秘境のため、高田藩および隣接する会津藩との国境未確定地域となっていたが、この銀鉱山の発見は会津藩を刺激し、にわかに国境争いがわき起こった。解決には15年の年月を要したが、両藩の国境は只見川中央とする裁定が下り、当初の計画通り、公儀御物入(国費)によって銀鉱山の開発が進められることとなった。工事は1656年(明暦2年)に完成し、翌1657年に鉱山開きの神事が執り行われた。
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