改革の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 04:16 UTC 版)
「愛国派 (ポーランド)」の記事における「改革の成功」の解説
四年セイム中、ポーランドを改革してロシアの支配から脱却しようとはかる人々により愛国派が形成された。彼らの目的は抜本的な改革法をつくり、セイムを通過させることだった。具体的には、マグナートとロシアが力を握っている常設評議会を廃止し、ポーランド軍を再拡張することを目指した。組織的には、彼らはほぼ同時進行していたフランス革命における革命政府を手本としていた。 愛国派は、ポーランド・リトアニアのあらゆる階層から支持を受けた。マグナートの中にも支持者がいたし、聖界でもカトリック啓蒙主義を掲げるエスコラピオス修道会が愛国派の急進的左派を応援していた。一口に愛国派と言っても、内側には様々な方向性を持った派閥が存在していた。イグナツィ・ポトツキ、スタニスワフ・コストカ・ポトツキ、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキら進歩派マグナートからなる愛国派右派は、プロイセンとの同盟を主張してスタニスワフ2世と対立した。一方でスタニスワフ・マワホフスキら中道派は、スタニスワフ2世との連携を重んじた。そしてフーゴ・コウォンタイ率いる政治クラブ「コウォンタイの鍛冶場」から発展した愛国派の急進左派(ポーランド・ジャコバン派)は、首都ワルシャワ市民の支持を当てにしていた。 コウォンタイの鍛冶場は改革運動の中でも特に著名で活発な勢力で、政治的な扇動者とすら評された。彼らはフーゴ・コウォンタイの著した『政治法』をもとに新憲法の制定を主張し、四年セイムの流れを憲法制定へと向かわせることになった。 1790年、愛国派はついに王の後ろ盾を得た。スタニスワフ2世自身が改革派に参加したのである。これによって改革派は、四年セイムの中で、行政改革、常設評議会の廃止、ポーランド軍の10万人規模への拡大、教会や貴族への所得課税といった改革を次々と成立させていくことが出来た。そして1791年、愛国派の最大の功績である5月3日憲法が成立した。これは自由拒否権を廃止して議会を正常化するとともに、世襲王制を復活させて王の権力を強めようとするものだった。この憲法は最初期の近代憲法の一つであるとともに、フランスに続いて啓蒙思想を一般の人々の間にまで浸透させようとする試みだった。憲法成立後、愛国派は「政府憲法の友協会」(Zgromadzenie Przyjaciół Konstytucji Rządowej)を組織し、これまでに成立した改革を護持するとともに、経済へも改革を広げていこうとした。この協会は、愛国派とともにポーランド最初の政党と呼ばれることがある。 1791年から1792年にかけて、ナロドヴァ・オプツァ(国内外)新聞が愛国派を支援し、非公式ながらその広報紙のような役割を果たした
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