改革の妨害・処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/11 15:01 UTC 版)
「ズルフィカール・ハーン」の記事における「改革の妨害・処刑」の解説
ズルフィカール・ハーンが精力的に活動する反面、馬鹿で無能な皇帝ジャハーンダール・シャーは怠惰な生活を送っていた。彼はズルフィカール・ハーンに全幅の信頼などもたず、嫉妬深い貴族たちもまた、陰で同様に反抗していた。 そういった貴族らはズルフィカール・ハーンが野心を抱いており、彼が帝権を脅かすなどと讒言を言い、ジャハーンダール・シャーはそれらに恐怖するありさまだった。臆病なジャハーンダール・シャーは強大な宰相ズルフィカール・ハーンを解任することはしなかったが、ついにはその追い落としを考え、ひそかに陰謀をめぐらすほどだった。ビパン・チャンドラは、「健全な統治にとってこれほど有害なことはなかっただろう」と評している。 また、ジャハーンダール・シャーは長年連れ添ってきた吟遊楽士の娘ラール・クンワールという女を正妃とし、その一族を重用した。正妃の座に平民身分の女をつけたことで、ジャハーンダール・シャーは味方の貴族たちも憤慨させ、彼から多くの貴族を離反させた。 こうした状況を、ベンガルに残された亡きアズィーム・ウッシャーンの遺児ファッルフシヤルは見逃さず、彼はベンガルのパトナで帝位を宣言した。ファッルフシヤルはジャハーンダール・シャーの軍と戦うため、ベンガルにおいて軍を召集し始めたが、彼はサイイド兄弟と呼ばれる二人と手を結ぶことにし、三者同盟軍はデリーへ進撃した。 ジャハーンダール・シャーはズルフィカール・ハーンとともに軍を集め、翌年1月10日に三者連合軍とアーグラ付近で対峙した(第二次サムーガルの戦い)。この対峙について、ハーフィー・ハーンはその状況を自身の伝記で、「人々はファッルフシヤルとジャハーンダール・シャーそれぞれの軍勢を見比べて、後者の勝利を予想した。だが、皇帝が育ちの悪い女(ラール・クンワール)をえこひいきして、粗野な連中とつるむのを好み、生まれの賤しい名もない者たちを重用したことに(略)貴族は愛想を尽かしていた。階級の高低を問わず、あらゆる軍人はファッルフシヤルの勝利に希望を見出した」述べている。 事実、皇帝軍は士気が衰えており分裂状態であり、一日で三者連合軍に簡単に打ち破られ、翌1月11日にファッルフシヤルが皇帝に即位することとなった。戦闘後、ズルフィカール・ハーンはファッルフシヤルへの臣従を請うたが、彼の支援したジャハーンダール・シャーがその父アズィーム・ウッシャーンを殺していたため許されなかった。 1713年2月11日、ズルフィカール・ハーンがジャハーンダール・シャーともに処刑されるとき、父のアサド・ハーンは家族とともに処刑のその日まで助命を嘆願していたが、結局処刑は実行された。処刑後、彼は涙を浮かべながら、息子の死をその墓のエピタフにこう綴ったという。 「 アブラハムがイシュマエルを犠牲にした 」
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