改革の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 03:21 UTC 版)
行政により強制的に凍結された物価は市場に価格はあれど品物が無いという状態を現出した。商人にとって価格が原価割れを起こす取引状況下では、物資を蓄積して機会を待ち販売するいわゆる売惜しみ行為が蔓延し、その結果市場での取引が大幅に減少したためである。そのため闇市が隆盛を誇り、蒋経国はこれらを実力で打破しようとした。その取締りの中、孔祥熙の子である孔令侃が逮捕される事件が発生した。この時は宋美齢の圧力により当人を釈放、蒋経国は副督導を引責辞任し、物価統制は失敗、11月1日に物価統制政策は全面撤回され、翁内閣もまた11月3日に総辞職した。 金円券政策失敗の最大の原因は発行限度額を無視して発行を続けた点にある。国民党政府は1948年の戦時赤字が毎月数億から数十億元に達していた一方でアメリカからの借款が受けられない状況下では、紙幣発行を行なってその補填をした。金円券発行1箇月後には発行高は12億元、11月9日には19億元と初期に定めた発行限度額に達するようになると、11月11日に行政院は「金円券発行法」を修正し発行限度額を撤廃、また民間の外貨保有を認め1USD=4金円券という当初の固定レートを、1USD=20金円券と5分の1に切り下げた。そして外貨への両替業務が開始されると、全国各地で10万人以上が窓口に殺到した。 1948年12月末には金円券の発行高は81億元に、1949年4月には5兆元、6月更には130兆元と僅か10箇月で24倍もの発行増となった。そのため金円券の額面も次第に大きくなり、最終的には1億元の紙幣が発行された。このような高額紙幣が発行されてもインフレに追いつくことは無く、1949年5月に1石の米の価格が4億元を記録し、買い物には紙幣の山が必要な状態となった。また民衆は価値の下落する金円券を手元に置きたがらなくなり、金円券を手にすると先を争って外貨や商品に交換され、いたるところで金円券は受け取り拒否をされることになった。 1949年4 - 5月、南京及び上海が相次いで中国共産党に占拠されると、共産党は6月に金円券の流通全面停止を宣言した。しかし国民党政府は広州で金円券の発行を継続し、紙くず同然になった7月3日にようやく金円券の発行停止と銀円券の発行が宣言された。
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