黒羽織党の評価と幕末の加賀藩
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「黒羽織党」の記事における「黒羽織党の評価と幕末の加賀藩」の解説
黒羽織党による一連の改革は、「秋霜烈日の綱紀粛正と、けちくさい消極主義に終止した(若林喜三郎)」「商品経済の進展で勃興した在郷商人層を組み入れ、藩権力のもとに統制掌握しようとした革新性(水島茂)」「黒羽織党の革新性は、国産奨励や流通統制など、産業政策において上田作之丞が説く藩営論を実行しようとした点にある(『金沢市史』)」など、論者によって評価が大きく分かれる。これには黒羽織党が信奉し、実践した上田作之丞の藩営論という重商主義的な政策をどう評価するかにも関わっている。奥村栄実以前や横山隆章による政治を生産力増強一辺倒の遅れた重農主義と見れば、藩という公権力が産業の多角化・育成や流通管理に乗り出した黒羽織党改革は、十分に新規性を帯びたものと見なせる(実際、同時期に行われた長州藩の村田清風や薩摩藩の調所広郷といった藩政改革の成功例においても、藩権力による域内産業の育成を重点に置いていた)。しかし、近代的な自由貿易主義の立場から見れば、貿易黒字の最大化(=赤字の最小化)を主眼に置き、(地方)政府が公的権力で産業を保護し流通にまで関わることは、非効率な脆弱産業を温存することによる無駄なコストを生じさせるとともに、貿易障壁を高くし、民間資本の健全な育成を阻害する守旧的な指向に見える。実際に、黒羽織党は銭屋五兵衛をはじめとする豪商らを排除したことから、銭五などに近代的な民間資本の萌芽を見出す立場からは、守旧反動的な政権と写る。 実際、新田開発や株仲間の解散などの政策においては、奥村と上田・黒羽織党との間では大して違いがなく、領内物産の確保などの消極性も同様である。結局のところ、黒羽織党政権の最大の特徴はその党派性と排他性にあった。加賀藩では黒羽織党以前以後も、寺島蔵人や奥村栄実、横山隆章などの党派が権力争いを繰り広げて他者を排斥し、互いに改革の足を引っ張ったため、いずれも中途半端に終わっている。黒羽織党による改革も、第一期・第二期ともに短期間で崩壊したため、十分な成果を上げることなく終了した。結果として加賀藩は、同時期に改革を行い得た他の有力藩に続くことができず、藩の総力体制を築くことに失敗する。全国随一の石高を誇る大藩でありながら、開国後の政情不安にも翻弄され、時局を主導する役割を果たすことが出来ず、幕末の混乱する政局の中で勇躍する西南雄藩の後塵を拝することとなったのである。
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