黒羽織党政権と銭屋五兵衛
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「黒羽織党」の記事における「黒羽織党政権と銭屋五兵衛」の解説
詳細は「銭屋五兵衛」を参照 嘉永元年(1848年)に始まった黒羽織党の新開策に積極的に関与したのが、金沢藩内で豪商として知られた銭屋五兵衛である。五兵衛は奥村栄実と組んで御用商人となった人物であり、藩の御手船裁許すなわち藩が所有する商船の管理人となって、商売を行い巨利を得る一方、御用銀を納付することで藩権力と癒着していた。奥山の死後、銭屋のような巨商を批判していた黒羽織党が政権を握ると、五兵衛の立場も不安定となる。 長連弘が五兵衛に異国との密貿易を持ちかけたという噂もあるが、実際には黒羽織党が実権を握る直前の嘉永元年2月、五兵衛の御手船常豊丸が能登沖で難破。長連弘はこの責任を問い、五兵衛から御手船裁許を剥奪している。 五兵衛の側では、黒羽織党下でも藩の要路とのパイプをつないでおく必要もあり、また三男の要蔵を地主とし、加賀藩における有力百姓の地位ともいえる「十村」にしようという意図も有していたため、黒羽織党の新田開発策に積極的に追従する。五兵衛は、嘉永2年(1849年)2月に藩に願い出て、領内の河北潟を理め立てて2,900石から4,600石にも及ぶ新開を試みた。しかし、河北潟理め立ては想像以上の難工事となり、また豪商を嫌っていた漁民からは工事中の杭や土嚢を撤去されるなどの嫌がらせを受けた。嘉永5年(1852年)7月には、河北潟で死魚が浮かび、それを食べた鳥が死んだといい、大根布村で10人が死去したため、藩は河北潟における漁業を禁止する。そして銭屋が毒油を河北潟に入れたとの噂が飛び交った。藩の調べにより河北潟の汚染は、銭屋が土砂固めのために石灰を入れたことが原因とされ、ほかにも銭屋が行っていた密貿易の情報が、幕府に漏洩することを恐れた藩は、要蔵や五兵衛をはじめ長男喜太郎・次男佐八郎ら銭屋一族を軒並み逮捕した。結局、隠居の銭屋五兵衛は牢死、要蔵らは磔刑になった。なお長男の喜太郎も入牢したが、代牢を願った娘ちかに免じて許されている。。 しかし実際には石灰が原因という証拠はなく、ほかに銭屋が蝦夷地で行っていた密貿易についても足軽を派遣して調べさせたがその事実は判明しなかった。また、会津藩領の山林買占めで加賀藩へ苦情が来たためともいうが、表向き銭屋処分の理由は、結局河北潟の毒の嫌疑のみであった。この処分により銭屋は家名断絶とされ、300万両にも及ぶ莫大な財産はすべて藩に没収された。
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