黒羽織党政権と銭屋五兵衛とは? わかりやすく解説

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黒羽織党政権と銭屋五兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)

黒羽織党」の記事における「黒羽織党政権と銭屋五兵衛」の解説

詳細は「銭屋五兵衛」を参照 嘉永元年1848年)に始まった黒羽織党新開策に積極的に関与したのが、金沢藩内で豪商として知られ銭屋五兵衛である。五兵衛奥村栄実組んで御用商人となった人物であり、藩の御手船裁許すなわち藩が所有する商船管理人となって商売行い巨利を得る一方御用銀納付することで藩権力癒着していた。奥山の死後銭屋のような巨商批判していた黒羽織党政権を握ると、五兵衛立場も不安定となる。 長連弘が五兵衛異国との密貿易持ちかけたという噂もあるが、実際に黒羽織党実権を握る直前嘉永元年2月、五兵衛御手船常豊丸が能登沖で難破長連弘はこの責任問い、五兵衛から御手船裁許剥奪している。 五兵衛の側では、黒羽織党下でも藩の要路とのパイプつないでおく必要もあり、また三男の要地主とし、加賀藩における有力百姓地位ともいえる「十村」にしようという意図有していたため、黒羽織党新田開発策に積極的に追従する。五兵衛は、嘉永2年1849年2月に藩に願い出て領内河北潟を理め立てて2,900石から4,600石にも及ぶ新開試みた。しかし、河北潟理め立て想像以上難工事となり、また豪商嫌っていた漁民からは工事中土嚢撤去されるなどの嫌がらせ受けた嘉永5年1852年7月には、河北潟死魚浮かび、それを食べた死んだといい、大根布10人が死去したため、藩は河北潟における漁業禁止する。そして銭屋が毒油を河北潟入れたとの噂が飛び交った。藩の調べにより河北潟汚染は、銭屋土砂固めのために石灰入れたことが原因とされ、ほかにも銭屋が行っていた密貿易情報が、幕府漏洩することを恐れた藩は、要や五兵衛をはじめ長男太郎・次男佐八郎銭屋一族軒並み逮捕した結局隠居銭屋五兵衛牢死、要らは磔刑になった。なお長男の喜太郎入牢したが、代牢を願った娘ちかに免じて許されている。。 しかし実際に石灰原因という証拠はなく、ほかに銭屋蝦夷地行っていた密貿易についても足軽派遣して調べさせたがその事実は判明しなかった。また、会津藩領の山林買占め加賀藩苦情が来たためともいうが、表向き銭屋処分理由は、結局河北潟の毒の嫌疑のみであった。この処分により銭屋家名断絶とされ、300万両にも及ぶ莫大な財産はすべて藩に没収された。

※この「黒羽織党政権と銭屋五兵衛」の解説は、「黒羽織党」の解説の一部です。
「黒羽織党政権と銭屋五兵衛」を含む「黒羽織党」の記事については、「黒羽織党」の概要を参照ください。

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