黒羽織党の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)
上記のように、第一次黒羽織党政権の政策は、新田開発、在郷商人資本の参入の許可、藩内産物の奨励、海防の強化、役所の人員削減、節約、綱紀粛正など多岐にわたったが、結局莫大な藩債の返済や、海防支出の増加による財政難は容易に改善できなかった。 中でも上田作之丞の倫理観を信奉する黒羽織党による冗員整理や綱紀粛正は、従来政権と較べても手厳しく、その排他的な党派性もあいまって、奥村派をはじめとする守旧派の藩士のみならず、それと結託する御用商人など町民からも大きな反撥を呼んだ。「出られたり出られたり、何が出られたり、黒羽織が出られたり、黒羽織といふ人は天上天の人なるが、ここらあたりの人でなし」で始まる俗謡が城下に流れ、黒羽織党による政治を皮肉る数え歌も流行ったという。こうした黒羽織党の不評は、藩主前田斉泰の耳にも届き、度重なる苦情に耐えかねて、ついに嘉永7年(1854年)6月17日、斉泰は長連弘を年寄から罷免するに至り、他の黒羽織党の面々も次々更迭された。これに伴い、黒羽織党の理論的支柱であった上田作之丞も、旅行や他家への訪問を禁じられた(4年後には禁を破ったとして、さらに外出も禁止)。長連弘は失脚から3年後の安政4年(1857年)に病死している。
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