黒羽織党の主要構成員とは? わかりやすく解説

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黒羽織党の主要構成員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)

黒羽織党」の記事における「黒羽織党の主要構成員」の解説

上田塾(拠遊館)で学んだ黒羽織党面々は、およそ数十人から成っていたという。領袖長連弘以外の代表的な人物には、算用場奉行水原清五郎割場奉行関沢安左衛門勝手方御用近藤兵作がいた。 長連弘(ちょう つらひろ、文化12年1815年) - 安政4年1857年)) 詳細は「長連弘」を参照 通称又三郎大隅守加賀藩八家長家第9代当主。同じ八家本多政礼二男で、外祖父長連愛養子となる。天保2年愛の死去に伴い、跡を継いで33,000石を知行上田作之丞の私塾拠遊館で実学学び黒羽織党結成嘉永2年1849年奥村栄実の後を受けて35歳政権をとり、黒羽織党同志要職につけた。しかし黒羽織党対する藩内の反撥強さ嫌った藩主前田斉泰により、安政元年1854年年寄職を奪われ黒羽織党員らの職も解かれた。3年後安政4年1857年失意のうちに死去享年43水原保延(みわら やすのぶ) 通称清五郎品川主殿二男水原保祐の養子となり、馬廻組属した。950石。弘化3年馬廻組頭となり金沢町奉行兼任翌年、御算用場奉行となる。長連弘黒羽織党政権誕生すると、有力メンバー一人として活躍徹底した財政整理努め一時的に財政好転させる安政元年長連弘失脚連座して免職。同3年馬廻組頭に復職その後藩校明倫堂督学となり、万延元年には支藩富山藩財用御用となって同藩の財政整理尽力した文久2年末に再び御算用場奉行となり、翌年には産物方設置して産業奨励した慶応4年1868年4月隠居清幽号する)。 関沢房清(せきざわ ふさきよ、文化5年1808年) - 明治11年1878年)) 通称安左衛門。号は遯翁。上田作之丞門下逸材として、黒羽織党幹部となる。甘藷栽培研究し上田長連弘紹介した人物でもある。割場奉行の職にあって長連弘助けて活躍した安政元年失脚後、同6年復職鳥羽・伏見の戦い際し京都家老前田孝錫の命を受けて帰国し佐幕派出兵抑えて藩主前田慶寧上洛尽力新政府軍北越戦争参戦して監軍となる。 近藤信行こんどう のぶゆき、寛政12年1800年) - 明治6年1873年)) 通称は兵作。号は新規矩斎。本組与力近藤左衛門の子280石。和算家として有名で『算題三十好再解』『量地必携図解六条』などの著がある。中野続従に関流算学師事し藩校明倫館師範となる。弘化4年1847年家督継承後、頭並・勝手方となる。財務明るく財政面長連弘補佐安政元年失脚したが、文久3年1863年)に復権して藩政参与する明治3年1870年老齢により致仕

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