黒羽織党の主要構成員
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上田塾(拠遊館)で学んだ黒羽織党の面々は、およそ数十人から成っていたという。領袖の長連弘以外の代表的な人物には、算用場奉行水原清五郎、割場奉行関沢安左衛門、勝手方御用近藤兵作がいた。 長連弘(ちょう つらひろ、文化12年(1815年) - 安政4年(1857年)) 詳細は「長連弘」を参照 通称は又三郎、大隅守。加賀藩八家の長家第9代当主。同じ八家の本多政礼の二男で、外祖父長連愛の養子となる。天保2年連愛の死去に伴い、跡を継いで33,000石を知行。上田作之丞の私塾拠遊館で実学を学び、黒羽織党を結成。嘉永2年(1849年)奥村栄実の後を受けて35歳で政権をとり、黒羽織党の同志を要職につけた。しかし黒羽織党に対する藩内の反撥の強さを嫌った藩主前田斉泰により、安政元年(1854年)年寄職を奪われ、黒羽織党員らの職も解かれた。3年後の安政4年(1857年)失意のうちに死去。享年43。 水原保延(みわら やすのぶ) 通称は清五郎。品川主殿の二男。水原保祐の養子となり、馬廻組に属した。950石。弘化3年馬廻組頭となり金沢町奉行を兼任。翌年、御算用場奉行となる。長連弘の黒羽織党政権が誕生すると、有力メンバーの一人として活躍。徹底した財政の整理に努め、一時的に藩財政を好転させる。安政元年長連弘の失脚に連座して免職。同3年馬廻組頭に復職、その後藩校明倫堂の督学となり、万延元年には支藩富山藩の財用方御用となって同藩の財政整理に尽力した。文久2年末に再び御算用場奉行となり、翌年には産物方を設置して産業を奨励した。慶応4年(1868年)4月に隠居(清幽と号する)。 関沢房清(せきざわ ふさきよ、文化5年(1808年) - 明治11年(1878年)) 通称は安左衛門。号は遯翁。上田作之丞門下の逸材として、黒羽織党の幹部となる。甘藷の栽培を研究し、上田に長連弘を紹介した人物でもある。割場奉行の職にあって長連弘を助けて活躍した。安政元年の失脚後、同6年に復職。鳥羽・伏見の戦いに際し、京都詰家老前田孝錫の命を受けて帰国し、佐幕派の出兵を抑えて、藩主前田慶寧上洛に尽力。新政府軍の北越戦争に参戦して監軍となる。 近藤信行(こんどう のぶゆき、寛政12年(1800年) - 明治6年(1873年)) 通称は兵作。号は新規矩斎。本組与力近藤瀬左衛門の子。280石。和算家として有名で『算題三十好再解』『量地必携図解六条』などの著がある。中野続従に関流算学を師事し、藩校明倫館の師範となる。弘化4年(1847年)家督継承後、頭並・勝手方となる。財務に明るく、財政面で長連弘を補佐。安政元年失脚したが、文久3年(1863年)に復権して藩政に参与する。明治3年(1870年)老齢により致仕。
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