ワルドー派のカラブリア移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 06:10 UTC 版)
「グアルディア・ピエモンテーゼ」の記事における「ワルドー派のカラブリア移住」の解説
グアルディアの町がいつ建設されたかは知られていない。「グアルディア」の地名のもととなった海岸監視塔 (torri costiere) は、11世紀に建設された。これは、沿岸部を襲撃するアラブの海賊(サラセン海賊)に対抗するためのものである。 ワルドー派は12世紀後半にリヨン出身のピエール・ヴァルドー(ピーター・ワルドー)を中心に形成されたキリスト教の教派であるが、1184年にローマ教皇から異端宣告を受けた。12世紀から13世紀にかけて、ボッビオ・ペッリーチェおよびトッレ・ペッリチェ(現在はピエモンテ州トリノ県に所属する)一帯での異端審問から逃れたワルドー派の人々が、カラブリアに到着した。1315年までに、かれらはモンタルト・ウッフーゴに定住し、またのちにはサン・ソスティ、ヴァッカリッツォ、サン・ヴィンチェンツォにも定着した。地元の領主であるスピネッリ家 (it:Spinelli (famiglia)) (フスカルドの領主であった)は、かれらに避難所を与えた。1375年までには、かれらは海抜500mの丘に定住した。これが現在のグアルディアの「上の町」にあたる。長年にわたり、ワルドー派の人々は表向きローマ・カトリックの信者を装って生き、ミサに参加したり、子供をカトリック教会で洗礼させたりした。しかし私的な領域でかれらはその信仰を守り、およそ2年の間隔で巡ってきては数日間滞在していくワルドー派の巡回説教師の説教を受けた 。 16世紀前半に展開された宗教改革の成功を受け、それまで潜んでいたワルドー派の人々の多くは、自らの本当の信仰を隠さないようになった。1532年、ワルドー派はピエモンテの Chanforan (現在のトリノ県アングローニャに含まれる一地区)で開かれたシノド (fr:Synode de Chanforan) において、信仰を公にすることを決議した。カラブリアのワルドー派の人々は、Marco Uscegli を特使としてジェノヴァに送り、説教者の派遣を求めた。これによりジャン・ルイジ・パスカーレ (it:Gian Luigi Pascale) がカラブリアに派遣され、グアルディア・ピエモンテーゼとサン・ソスティにワルドー派の教会が設立された。
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