1980年代:レーガン主義との戦い
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1980年代:レーガン主義との戦い」の解説
1980年大統領選挙でのレーガン勝利の原動力となったのは、保守的な政策を支持する民主党員たちであった。「レーガン・デモクラット(英語版)」と呼ばれるこれらの民主党保守派の票に依ってこそ、ロナルド・レーガンの1980年と1984年の勝利、そして1988年のジョージ・H・W・ブッシュの勝利がもたらされたのである。レーガン・デモクラットは主に北東部と中西部の白人で、レーガンの人工妊娠中絶などをめぐる社会保守主義と強権的な外交政策に賛同していた。民主党の世論調査員スタンレー・グリーンバーグの分析によれば、デトロイトのすぐ北にあるミシガン州マコーム郡郊外の白人有権者(主に労働組合に所属する自動車工場労働者)は、1960年には63%がケネディに投票し、1984年には66%がレーガンに投票していた。グリーンバーグの結論によれば、レーガン・デモクラットは、民主党がもはや彼ら中産階級の要求を代弁しておらず、むしろ他の集団、特にアフリカ系アメリカ人や政治的左翼団体、最貧層の利益を最重視していると感じていた。 レーガン・デモクラットと南部の白人の支持離れが、ニューディール連合を決定的に解体した。1984年の大統領選挙では、現職レーガンが49州を獲得し、ニューディール信奉者の元副大統領でミネソタ州選出上院議員のウォルター・モンデールを破った。 大敗の続く民主党は、1985年に民主党指導者会議(英語版)を創設した。設置の目的は、党の方針を左派から中道に引き戻し、レーガン支持から共和党に流れていた企業からの献金を呼び戻して、資金力を回復することであった。その目標は、中道左派のみならず、社会問題に関して穏健もしくは保守的な有権者を取り込み、もともとは共和党を支持していない人々の大半から広範な支持を取り付けることであった。更に1988年の大統領選挙では、ニューディール主義者ではなく、行政改革の成功者であるマイケル・デュカキス・マサチューセッツ州知事を擁立して戦ったが、やはり、現職副大統領のジョージ・H・W・ブッシュに大敗した。
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