1980年代以降から死までとは? わかりやすく解説

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1980年代以降から死まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:14 UTC 版)

武満徹」の記事における「1980年代以降から死まで」の解説

1980年作曲されヴァイオリンオーケストラのための「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響影を潜め和声的響きと「歌」を志向する晩年作風への転換印象続け作品となった。この時期ショット社移籍し作品演奏機会以前よりも急激に増えることになる。以前自身作曲日本正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日音楽・作曲賞」では武満たった一人審査務め武満自身の手国際作曲賞授与することに決めた。この作曲賞から多く日本若手世界各国若手巣立った1980年代はすでに前衛流行なくなっており、武満今日音楽では積極的に海外潮流紹介したが、武満本人興味はそれとはもう関わり薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性良いのでひっきりなしにオーケストラ曲委嘱応えていた。全編調性音楽である「系図若い人たちのための音楽詩―」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めたショット社ドイツにあるにもかかわらずドイツ新聞で「シェーンベルク以前音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる晩年それまで手をつけていなかったオペラ取り組もう意欲見せるが、作品完成日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった台本はすでに完成されており、2005年野平一郎によって作曲された。1995年膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見されまた、間質性肺炎患っていた武満数ヶ月に渡る長期入院生活を送ることになる。小康得て一時退院中、完成され最後作品となる「のなかで」、「エア」を作曲死後冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルートハープオーケストラのための「ミロ彫刻のように」の未完譜面仕事場で見つかる(第一曲〈la lune(月)第二曲〈le soleil(太陽)〉と二部編成にする予定であった)。1996年2月20日虎の門病院にて死去した65歳没。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺境内墓地葬儀の際には、黛敏郎が『MI・YOTA』のメロディ何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽アシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YOTA』である。

※この「1980年代以降から死まで」の解説は、「武満徹」の解説の一部です。
「1980年代以降から死まで」を含む「武満徹」の記事については、「武満徹」の概要を参照ください。

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