1980年代:レーガン革命
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1980年代:レーガン革命」の解説
1980年の大統領選挙では、事前の世論調査の結果を裏切り、ロナルド・レーガンが圧勝した。レーガン個人の強い魅力に加え、共産主義の脅威を撃退する「力による平和(英語版)」と大規模減税による経済活性化を公約に掲げた共和党の前に、現職カーターは為す術がなかった。同時に共和党は数十年ぶりに上院を掌握し、党内での保守派の主導権は盤石となった。 レーガンは1984年の大統領選でも民主党ウォルター・モンデールを相手に圧勝した。80年と84年の連勝により、再び政党の勢力図は塗り替えられた。1980年は、大多数の社会経済(英語版)集団において民主党が劣勢となり、レーガン連合(英語版)が結成された。1984年には、レーガンは一般投票で60%近い得票率を得ただけでなく、ほぼ全ての州を獲得して選挙人総数538票のうち525票を押さえるという記録的大勝利をあげた。対抗馬のモンデールが獲得したのは、地元のミネソタ州とコロンビア特別区だけであり、そのミネソタ州でさえ、票差はわずか3761票であった。 政治評論家たちは、レーガンのこれほどまでの圧勝を説明するために、80年と84年の選挙でレーガンに(そして88年にはジョージ・H・W・ブッシュに)投票した民主党支持の有権者のことを「レーガン・デモクラット(英語版)」と名付けた。そのほとんどは白人のブルーカラーであり、人工妊娠中絶などの社会問題に対するレーガンの保守的姿勢と、タカ派的な外交政策に魅力を感じていた。民主党の世論調査員スタンレー・グリーンバーグの分析によれば、レーガン・デモクラットは、民主党がもはや彼ら中産階級の要求を代弁しておらず、むしろ他の集団、特にアフリカ系アメリカ人や左翼の利益を最重視していると感じていた。 レーガンの登場により、経済再生政策と反共政策を始めとして、ワシントンで長く続いてきた論争のいくつかは流れが根底から代わり、俗に「レーガン革命(英語版)」と称された。 レーガン政権の経済政策はレーガノミクスと称された。財政面においては、レーガン政権は「野獣を飢えさせよ(英語版)」政策を唱え、減税によって連邦政府(野獣)の歳入を減らす(飢えさせる)ことによって、強制的に小さな政府を実現しようとした。連邦準備制度理事会議長のポール・ボルカーによる新しい金融政策は、激しいインフレと景気後退を押しとどめ、人々をスタグフレーションへの不満から解放した。超党派の協力体制が戻り、社会保障による財政危機はその後25年間、問題にならなくなった。1984年の大統領選挙では、レーガンは経済再生の立役者として賞賛された。この時にもてはやされた選挙スローガンは「アメリカに朝がまたやって来た!(英語版)」だった。1986年の税法改正で、所得税の累進度は大幅に緩和され、高所得層の所得税は約25%減税された。 レーガンの支持者は、今日に至るまで、レーガンの政策が空前の経済成長をもたらし、ソビエト連邦の崩壊に拍車をかけたとみなしている。一方、リベラル派は同時代から激しく批判した。批判側は、レーガンが減税と国防費の大幅増額と予算の均衡を同時に成し遂げると約束したにもかかわらず、レーガン政権の8年間に連邦政府の財政赤字が3倍になったと指摘している。レーガンの経済顧問を勤めた当時の行政予算管理局長デイヴィッド・ストックマン(英語版)は、2009年、「(現在の)債務の膨張は民主党政権による大規模な財政支出によるものではなく、約30年前に共和党が受け入れた、減税に由来する限り赤字は問題ではないという、狡猾かつ危険な考え方から来ている」と認めている。 外交面では超党派による協力はみられなかった。レーガンはソ連に対して強硬な姿勢をとり、核兵器の凍結を求める民主党員は懸念を募らせた。また、ニカラグアのサンディニスタ政権に抵抗するゲリラ組織コントラを支援し、グアテマラのエフライン・リオス・モント政権やホンジュラスのアスコナ・オヨ(スペイン語版、英語版)政権、エルサルバドルのロベルト・ダウブイッソン(英語版)政権等、反共ゲリラ運動を弾圧する独裁政権を支援したが、ほとんどの民主党員はこれらの政策に断固として反対した。それでもレーガンは、ソ連には到底追いつけない規模にまで国防費を増額し、戦略防衛構想(SDI)を立ち上げた。SDIは反対派からは「スターウォーズ計画」と揶揄された。 ミハイル・ゴルバチョフがモスクワで政権に就くと、レーガンとゴルバチョフの間に友好関係が生まれたが、共和党保守派の多くはこれに懐疑的な目を向けた。ソ連の共産主義を維持しようとするゴルバチョフは、第一に費用のかかるアメリカとの軍拡競争を終わらせることを目指し、次いで1989年には東欧の共産主義政権の崩壊を許した。しかし、結局1991年にソ連は崩壊した。レーガンの後継者であるジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、旧ソ連における大衆の反感を恐れて、国内の勝利気分の過熱を抑えようとしたが、冷戦で明白な勝利をあげたように見えたことは、レーガンの推進した攻撃的な外交政策が正しかったと共和党支持者に確信させた。レーガンを厳しく批判する論客の一人であるヘインズ・ジョンソン(英語版)も、「レーガンの最も優れた業績は、ベトナム戦争とウォーターゲート事件のトラウマとイランアメリカ大使館人質事件の苛立ちと、失敗と感じられる政権が続いた後に、アメリカ人に自分たちと自分たちの政府に対する自尊心を取り戻させたことだった」と認めている。
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