1980年代:レーガン革命とは? わかりやすく解説

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1980年代:レーガン革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)

アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1980年代:レーガン革命」の解説

1980年大統領選挙では、事前世論調査の結果裏切りロナルド・レーガン圧勝したレーガン個人の強い魅力加え共産主義脅威撃退する「力による平和(英語版)」と大規模減税による経済活性化公約掲げた共和党前に現職カーター為す術がなかった。同時に共和党数十年ぶりに上院掌握し党内での保守派主導権盤石となったレーガン1984年大統領選でも民主党ウォルター・モンデール相手圧勝した80年84年連勝により、再び政党勢力図塗り替えられた。1980年は、大多数社会経済英語版集団において民主党劣勢となり、レーガン連合英語版)が結成された。1984年には、レーガン一般投票60%近い得票率得ただけでなく、ほぼ全ての州を獲得して選挙人総数538票のうち525票を押さえるという記録的大勝利をあげた。対抗馬モンデール獲得したのは、地元ミネソタ州コロンビア特別区だけであり、そのミネソタ州でさえ、票差はわずか3761票であった政治評論家たちは、レーガンこれほどまでの圧勝説明するために、80年84年選挙レーガンに(そして88年にはジョージ・H・W・ブッシュに)投票した民主党支持有権者のことを「レーガン・デモクラット(英語版)」と名付けた。そのほとんどは白人ブルーカラーであり、人工妊娠中絶などの社会問題対すレーガン保守的姿勢と、タカ派的な外交政策魅力感じていた。民主党世論調査員スタンレー・グリーンバーグの分析によれば、レーガン・デモクラットは、民主党がもはや彼ら中産階級要求代弁しておらず、むしろ他の集団、特にアフリカ系アメリカ人左翼利益を最重視していると感じていた。 レーガン登場により、経済再生政策反共政策始めとして、ワシントン長く続いてきた論争いくつか流れ根底から代わり俗にレーガン革命英語版)」と称された。 レーガン政権経済政策レーガノミクス称された。財政面においてはレーガン政権は「野獣飢えさせよ(英語版)」政策唱え減税によって連邦政府野獣)の歳入を減らす(飢えさせる)ことによって、強制的に小さな政府実現しようとした。連邦準備制度理事会議長ポール・ボルカーによる新し金融政策は、激しインフレ景気後退押しとどめ、人々スタグフレーションへの不満から解放した超党派協力体制戻り社会保障による財政危機その後25年間、問題にならなくなった1984年大統領選挙では、レーガン経済再生立役者として賞賛された。この時にもてはやされ選挙スローガンは「アメリカに朝がまたやって来た!(英語版)」だった。1986年税法改正で、所得税累進度は大幅に緩和され高所得層の所得税は約25%減税された。 レーガン支持者は、今日に至るまで、レーガン政策空前経済成長もたらしソビエト連邦の崩壊拍車をかけたとみなしている。一方リベラル派同時代から激しく批判した批判側は、レーガン減税国防費大幅増額と予算均衡同時に成し遂げる約束したにもかかわらずレーガン政権8年間に連邦政府財政赤字が3倍になった指摘している。レーガン経済顧問勤めた当時行政予算管理局長デイヴィッド・ストックマン(英語版)は、2009年、「(現在の債務膨張民主党政権による大規模な財政支出よるものではなく、約30年前共和党受け入れた減税由来する限り赤字問題ではないという、狡猾かつ危険な考え方から来ている」と認めている。 外交面では超党派による協力はみられなかった。レーガンソ連に対して強硬な姿勢をとり、核兵器凍結求め民主党員懸念募らせた。また、ニカラグアサンディニスタ政権抵抗するゲリラ組織コントラ支援しグアテマラエフライン・リオス・モント政権ホンジュラスのアスコナ・オヨ(スペイン語版英語版政権エルサルバドルのロベルト・ダウブイッソン(英語版政権等、反共ゲリラ運動弾圧する独裁政権支援したが、ほとんどの民主党員はこれらの政策断固として反対した。それでもレーガンは、ソ連には到底追いつけない規模にまで国防費増額し戦略防衛構想SDI)を立ち上げたSDI反対派からは「スターウォーズ計画」と揶揄された。 ミハイル・ゴルバチョフモスクワ政権に就くと、レーガンゴルバチョフの間に友好関係生まれたが、共和党保守派多くはこれに懐疑的な目を向けたソ連共産主義維持しようとするゴルバチョフは、第一に費用のかかるアメリカとの軍拡競争終わらせることを目指し次いで1989年には東欧共産主義政権崩壊許した。しかし、結局1991年ソ連崩壊したレーガン後継者であるジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、旧ソ連における大衆反感恐れて国内勝利気分過熱抑えようとしたが、冷戦明白な勝利をあげたように見えたことは、レーガン推進した攻撃的な外交政策正しかった共和党支持者確信させた。レーガン厳しく批判する論客一人であるヘインズ・ジョンソン(英語版)も、「レーガンの最も優れた業績は、ベトナム戦争ウォーターゲート事件トラウマイランアメリカ大使館人質事件苛立ちと、失敗感じられる政権続いた後に、アメリカ人自分たちと自分たちの政府対す自尊心取り戻させたことだった」と認めている。

※この「1980年代:レーガン革命」の解説は、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の解説の一部です。
「1980年代:レーガン革命」を含む「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の概要を参照ください。

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