連邦準備制度理事会議長
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「ユージン・メイヤー」の記事における「連邦準備制度理事会議長」の解説
第一次世界大戦中、ウッドロー・ウィルソン大統領に請われて年俸1ドルで戦争金融公社(英語版)の総裁となり、終戦後も長くその職を務めた。1927年、カルビン・クーリッジ大統領により連邦農業融資委員会(英語版)委員長に任命された。 1930年、ハーバート・フーヴァー大統領により、連邦準備制度理事会(FRB)議長(英語版)に任命された。1932年、再建金融公社(英語版)の総裁を半年間務めた。この公社は、フーヴァー大統領が企業に融資して支援するために設立したものだったが、うまく行っていなかった。フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、メイヤーは1933年5月10日にFRBの役職を辞任した。 メイヤーは、1930年代初頭の世界恐慌に対しFRB議長として金融刺激策を打たなかったことで、銀行危機が手に負えないものになり、経済崩壊が深まったとして批判されている。メイヤーは、J・P・モルガン、アンドリュー・メロン、オグデン・ミルズとともに「ヨハネの黙示録の四騎士」になぞらえられた。最近では、ノーベル賞受賞者のミルトン・フリードマンとその同僚の経済学者アンナ・シュワーツ(英語版)が著書『米国金融史(英語版)』の中で、FRBは世界恐慌の影響を緩和することができたはずだが、金融システムの管理や信用不安の改善という役割を果たすことができなかったと論じている。
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連邦準備制度理事会議長
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「アラン・グリーンスパン」の記事における「連邦準備制度理事会議長」の解説
1987年8月11日、グリーンスパンはロナルド・レーガン大統領の指名で連邦準備制度理事及び議長になることが上院に承認された。就任して2ヶ月後に彼は最初の危機、ブラックマンデーに直面した。1日でダウ工業株平均が約20%下落した翌朝、FRBは流動性を提供する準備ができているという短い声明を発表し、株式相場は約4%反発した。短い声明は、市場の崩壊を防ぐために効果を発揮したとされ、ウォール・ストリート・ジャーナルはブラックマンデーの5週間後に新しい議長は試験に合格したと評価、アラン・ブラインダーはここで見せたグリーンスパンの手腕を「マネタリー・ケインジアン」と評して賞賛した。 1988年の大統領選挙の前には景気を優先させるために政府は利下げの圧力をかけたが、FRBの独立性を守りインフレ対策として利上げを行った。選挙は共和党が勝利し、ブッシュ大統領が就任した。1989年には金利は10%近くまで達したが、景気が軟化したため徐々に利下げしていった。1990年8月にイラクがクウェートに侵攻し、景気の指標が低下するとさらに利下げを行った。ウォール・ストリート・ジャーナルはFRBの他の理事たちの一部にグリーンスパンは利下げを急ぎすぎているという不満があると伝えた。グリーンスパンの任期は1991年の8月に切れるが、大統領がぎりぎりまで再任を決めなかった。そのため政府からFRBに対する暗黙の圧力を疑われ、グリーンスパンの再任が決まった際にウォール・ストリート・ジャーナルはFRBの独立性について社説で疑問を投げかけた。その後、景気が急速に悪化したため、12月に1%の利下げを行い金利は4%になった。 1992年の大統領選挙では民主党が勝利し、ビル・クリントンが大統領に就任した。景気回復のためには財政赤字を削減し、長期金利を下げることが必要だというグリーンスパンの意見が容れられ1400億ドルの支出削減が政府の経済政策として発表されると長期金利は低下した。1994年に景気が拡大を始めると、FRB内部では0.5%の利上げが検討されたが、グリーンスパンは5年ぶりの利上げであることから市場にショックを与えないために0.25%の利上げを主張し、理事会を説得して指導力を発揮した。1995年は金利を5.5%前後に置き、失業率・インフレ率が低く抑えられ1.5%の経済成長と好調な株式市場という理想的な状態になった。 1996年にグリーンスパンはクリントン大統領から3期目のFRB議長として再任された。大統領選挙でクリントン大統領が再選を果たした後の12月に株式市場が高騰し、1年で26%上昇していたため、日本のバブル崩壊から教訓を得ていた財務省やFRBは危惧を抱いていた。グリーンスパンはスピーチで「根拠無き熱狂」という言葉を使用して株式市場に疑問を提示した。1999年5月の上院銀行委員会では、「金(ゴールド)の、売却はいたしません。ゴールドは究極の通貨だからです」と述べている。2000年にはクリントン大統領に4期目の再任の指名を受けた。 2004年5月18日には共和党のブッシュ大統領から米国史上前例のない5期目の連邦準備制度理事会議長に任命され、2006年1月31日まで同職を務めた。 金融政策の行方について多弁を費やしながら、含みをもたせ、言質を取らせなかった言葉で市場関係者を幻惑しつつ、巧みに市場金利を望ましい水準に誘導し、「金融の神様」「マエストロ」の名をほしいままにした。 しかし、2007年以降の住宅バブル崩壊に端を発する世界金融危機を巡っては、グリーンスパンによる数度にわたる金融緩和が一因との指摘が強く、功罪共に盛んに議論されている。
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