ボルカー・ショック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 05:25 UTC 版)
「ポール・ボルカー」の記事における「ボルカー・ショック」の解説
ボルカー指導下のFRBは、1970年代の米国におけるスタグフレーションを巧拙を抜きにして、とにかく終わらせた業績で知られている。連邦準備制度理事会議長に就任した1979年8月より「新金融調節方式」、いわゆるボルカー・ショックと呼ばれる金融引き締め政策を断行した。 ボルカーの導入した引き締め政策によって、1979年10月にはニューヨーク株式市場は短期間のうちに10%を超える急落を見せた(ボルカー・ショック)。1979年に平均11.2%だったフェデラル・ファンド金利(政策金利)はボルカーによって引き上げられて 1981年には20%に達し、市中銀行のプライムレートも同年21.5%に達した。しかし、それと引き換えにGDPは3%以上減少し、産業稼働率は60%に低下、失業率は11%に跳ね上がった。特に、政策目標をマネーサプライに変更したことから、フェデラル・ファンド金利が乱高下することとなり経済の不確実性が高まったことが、不必要に経済状況を悪化させた。 この結果、ボルカー指導下の連銀は、連邦準備制度の歴史上最も激しい政治的攻撃と、1913年の創立以来最も広範な層からの抗議を受けることになった。高金利政策によって建設、農業部門などが受けた影響により、重い債務を負った農民がワシントンD.C.にトラクターを乗り入れてFRBが本部を置くエックルス・ビル(英語版)を封鎖する事態にまで至った。 そのような中で引き締めを続けることが困難となり、1982年後半、3年続けた金融引き締め政策を断念した。3年間の金融引き締め政策でインフレ率は1981年に13.5%に達していたものが1983年には10%以上も減少し3.2%まで低下するとともに、失業率は大幅に悪化していた。金融引き締めから緩和に転じたことによってアメリカ経済は活気を取り戻し、GDP・産業稼働率は向上し、失業率は低下した。
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