1980年代:タカ派の台頭とは? わかりやすく解説

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1980年代:タカ派の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:05 UTC 版)

日米関係」の記事における「1980年代:タカ派の台頭」の解説

詳細は「プラザ合意」、「日米貿易摩擦」、「ジャパンバッシング」、および「日米構造協議」を参照 世界問題対処する日米協力新しい段階は、1982昭和57)年後半中曽根康弘首相選出によって成し遂げられたと考えられている。共和党ロナルド・レーガン政権職員は彼らの2人指導者共有していた安全保障観と国際的展望に基づく個人的関係の発展のため、日本のカウンターパートナーとともに密接に作業行った中曽根ソビエト連邦脅威対す日本決断についてアメリカを安心させ、朝鮮半島情勢東南アジアなどアジア問題についてアメリカ緊密に政策調整行いアメリカ中国対す政策とも協力して作業行った日本の政府アメリカ軍日本西太平洋地域への増派歓迎し自衛隊着実な増強続け日本ソビエト連邦国際的な拡大主義脅威に対してアメリカの側に確固として立ち続けた1980年代後半中曽根首相の座を退いた後も、日本はこれらの地域におけるアメリカ政策と密接に協力し続けたリクルート事件など政治的指導者不祥事起こったことは、新しく大統領就任したジョージ・H・W・ブッシュレーガン時代同様に日本指導者個人的に親密な関係を築くことを難しくさせた。 日本アメリカ一方的関係が見られる具体例には、プラザ合意その後アメリカ政府要求した思いやり予算増額対す日本政府の反応挙げられる為替調整が行われたのは日本におけるアメリカ経費急騰し、その相殺のためにアメリカ政府日本政府一方的に要求し日本応じた為だった。もう一つの例は日本冷戦下西側諸国にとって戦略的に重要であると考えられていた国に対す海外援助アメリカ政府要求素早く反応したことである。1980年代アメリカ政府はパキスタン・トルコ・エジプト・ジャマイカなどへの日本の「戦略的な援助」に対し謝意表した1990年代海部俊樹首相東ヨーロッパ及び中東諸国への支援約束し日本アメリカに代わって援助金を出す様はアメリカ自動ATM揶揄された。さらに援助した資金債権放棄繰り返し、自ら金融的影響力放棄させられる様は敗戦国そのものといわれ続けた一部日本の企業家や外交官からの不満があったにもかかわらず日本政府アメリカ対中国および対インドシナ政策に対して基本的に合意し続けた中国インドシナ政府条件を満たすまで大規模な援助控えることについて、日米利害共通していると考えられていた。もちろん、日本の協力にも限りはあった。イラン・イラク戦争の間、ペルシャ湾タンカー護衛するというアメリカ決定対す日本の反応複雑な回顧対象となった日本憲法上の理由により軍隊派遣することができないこと指摘し肯定的な意見述べたアメリカ政府関係者もいたが、代償としてペルシャ湾における航海システム建設支援し在日米軍対すさらなる支援とオマーン・ヨルダンに対す経済支援なされた日本ペルシャ湾への掃海艇派遣すら拒否したことは、アメリカ関係者一部日本指導者敏感な地域におけるアメリカとの協力に対して消極的なのだと受け止められた。 1980年代日米亀裂が最もよく現れたのは、外国製品への市場開放要求するアメリカ政府再三にわたる一方的要求対し日本政府抵抗したことである。その後よくあるパターン続いた日本政府国内重要な有権者市場開放によって被害蒙ることによって生じ政治的圧力対し敏感になっていた。 一般的にこれらの有権者2つのタイプ代表していた。本当国際競争直面した場合勝ち残ることのできないほど非効率的であるか、「衰退しつつある」生産者製造業者輸送業者である。日本政府はそれらの産業において有望なものを、彼らが世界の市場において十分な競争力をつけるまで海外競争相手から保護したい考えていた。アメリカとの摩擦避けつつ国内からの圧力をかわす為、日本政府交渉を長引かせようとした。この戦術産業構造の転換図り新しく強い産業育てるまでの時間稼ぎだった。問題諸相を扱う合意至ったが、貿易経済問題について数年にわたり対話引き延ばされていたことでは共通していた。そのような合意時としてあいまいであり、日米間で解釈めぐって摩擦引き起こすこととなった発展する相互依存内外において著し環境の変化もたらしそのこと1980年代後半日米関係において危機の状態を作り出した広く思われていた。アメリカ政府は関係の肯定的側面引き続き強調したが、「新し概念枠組み」が必要であると通告したウォール・ストリート・ジャーナル一連の長期連載特集記事のなかで1980年代後半の関係の変容について批判し1990年代向けて日米緊密に協力することが可能なのか、また適切なかどうか論じたワシントン拠点を置く委員会1990年発表した21世紀日米関係について大衆支持する権威ある報告メディア意見緊密な日米関係を保つことについて警鐘鳴らしていた。それは危機の状態にあるといわれていた日米関係構造の「猜疑心非難少なからぬ自己正当化」による「新たな正統性」を警告した比肩すべき経済力を持つ国となった日本とアメリカの関係は、特に1980年代において水面下変化しつつあった。この変化1980年代中盤から毎年400ドルから480ドル台で推移していたアメリカ対日貿易赤字はるかに超える意味を含んでいた。1980年代初めから続くアメリカ貿易財政双子の赤字は、日本アメリカ通貨価値再調整という一連の決断につながることになった強くなった日本円日本がより多くアメリカ製品や米国債購入することや、重要な対米投資を行うことを可能にした。1980年代終盤には、日本世界主要な債権国となっていた。 増え続け日本対米投資、それはイギリス次いで2番目に多いものだったが、それは一部アメリカ有権者にとって、不満のもとになっていた。それだけでなく、日本産業アメリカ製造業のほうが未だ優勢ではあったが、ハイテク産業への投資のために経済力行使するのによい位置占めていると思われていた。多く日本人アメリカ人は、このような環境における個人政府民間債務と低い貯蓄率アメリカ競争力阻害していると考えていた。 1980年代終盤東ヨーロッパ社会主義陣営崩壊ソビエト連邦指導者大きな国内的な政治及び経済問題没頭せざるを得なかったこと、またソ連アフガン侵略他国侵略する余裕がない為、日本侵攻脅威大幅に低減した状態は日本アメリカ両国政府長期にわたり継続していたソビエト連邦脅威対す安保関係を再評価させることになった両国関係者安全保障関係が経済他の問題よりも優先すべき関係の不可欠な要石であると強調する傾向にあった日米両国関係者評論家なかにはアジアにおける強力なソ連軍事的プレゼンスが続くなかで、日米両国共有する危機強調し続ける者もいた。彼らはモスクワヨーロッパ民主化に伴う復員および太平洋における日米比較して兵力削減まで日米安保維持することを強調しワシントン東京には軍事的な準備警戒が必要であることを説いたしかしながら、他の者は日米密接な安全保障関係の利益がますます強調されていることを認めた日米安保東アジアにおいて潜在的に混乱引き起こす勢力、特に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)に対す抑止力になっている思われていた。皮肉なことにアメリカ関係者なかには日米安保アメリカ監視の下で日本台頭潜在的軍事力チェックするのに役立った指摘する者もいた。

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