1980年代:タカ派の台頭
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「日米関係」の記事における「1980年代:タカ派の台頭」の解説
詳細は「プラザ合意」、「日米貿易摩擦」、「ジャパンバッシング」、および「日米構造協議」を参照 世界の問題に対処する日米の協力の新しい段階は、1982(昭和57)年後半の中曽根康弘首相の選出によって成し遂げられたと考えられている。共和党のロナルド・レーガン政権の職員は彼らの2人の指導者が共有していた安全保障観と国際的展望に基づく個人的関係の発展のため、日本のカウンターパートナーとともに密接に作業を行った。中曽根はソビエト連邦の脅威に対する日本の決断についてアメリカを安心させ、朝鮮半島情勢や東南アジアなどアジアの問題についてアメリカと緊密に政策の調整を行い、アメリカの中国に対する政策とも協力して作業を行った。日本の政府はアメリカ軍の日本や西太平洋地域への増派を歓迎し、自衛隊の着実な増強を続け、日本はソビエト連邦の国際的な拡大主義の脅威に対してアメリカの側に確固として立ち続けた。1980年代後半、中曽根が首相の座を退いた後も、日本はこれらの地域におけるアメリカの政策と密接に協力し続けた。リクルート事件など政治的指導者の不祥事が起こったことは、新しく大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュがレーガンの時代と同様に日本の指導者と個人的に親密な関係を築くことを難しくさせた。 日本とアメリカの一方的関係が見られる具体例には、プラザ合意とその後アメリカ政府が要求した思いやり予算の増額に対する日本政府の反応が挙げられる。為替の調整が行われたのは日本におけるアメリカの経費が急騰し、その相殺のためにアメリカ政府が日本政府に一方的に要求し、日本が応じた為だった。もう一つの例は日本が冷戦下の西側諸国にとって戦略的に重要であると考えられていた国に対する海外援助のアメリカ政府の要求に素早く反応したことである。1980年代にアメリカ政府はパキスタン・トルコ・エジプト・ジャマイカなどへの日本の「戦略的な援助」に対し謝意を表した。1990年代、海部俊樹首相は東ヨーロッパ及び中東諸国への支援を約束し、日本がアメリカに代わって援助金を出す様はアメリカの自動ATMと揶揄された。さらに援助した資金の債権放棄を繰り返し、自ら金融的影響力を放棄させられる様は敗戦国そのものといわれ続けた。 一部の日本の企業家や外交官からの不満があったにもかかわらず、日本政府はアメリカの対中国および対インドシナ政策に対して基本的に合意し続けた。中国とインドシナの政府が条件を満たすまで大規模な援助を控えることについて、日米の利害は共通していると考えられていた。もちろん、日本の協力にも限りはあった。イラン・イラク戦争の間、ペルシャ湾のタンカーを護衛するというアメリカの決定に対する日本の反応は複雑な回顧の対象となった。日本は憲法上の理由により軍隊を派遣することができないことを指摘し、肯定的な意見を述べたアメリカ政府の関係者もいたが、代償としてペルシャ湾における航海システムの建設を支援し、在日米軍に対するさらなる支援とオマーン・ヨルダンに対する経済支援がなされた。 日本がペルシャ湾への掃海艇の派遣すら拒否したことは、アメリカの関係者の一部に日本の指導者は敏感な地域におけるアメリカとの協力に対して消極的なのだと受け止められた。 1980年代に日米の亀裂が最もよく現れたのは、外国製品への市場開放を要求するアメリカ政府の再三にわたる一方的要求に対し日本政府が抵抗したことである。その後はよくあるパターンが続いた。日本政府は国内の重要な有権者が市場の開放によって被害を蒙ることによって生じる政治的圧力に対し敏感になっていた。 一般的にこれらの有権者は2つのタイプを代表していた。本当の国際競争に直面した場合、勝ち残ることのできないほど非効率的であるか、「衰退しつつある」生産者、製造業者、輸送業者である。日本政府はそれらの産業において有望なものを、彼らが世界の市場において十分な競争力をつけるまで海外の競争相手から保護したいと考えていた。アメリカとの摩擦を避けつつ国内からの圧力をかわす為、日本政府は交渉を長引かせようとした。この戦術は産業構造の転換を図り、新しく強い産業を育てるまでの時間稼ぎだった。問題の諸相を扱う合意に至ったが、貿易や経済の問題について数年にわたり対話が引き延ばされていたことでは共通していた。そのような合意は時としてあいまいであり、日米間で解釈をめぐって摩擦を引き起こすこととなった。 発展する相互依存は内外において著しい環境の変化をもたらし、そのことは1980年代後半の日米関係において危機の状態を作り出したと広く思われていた。アメリカ政府は関係の肯定的側面を引き続き強調したが、「新しい概念の枠組み」が必要であると通告した。 ウォール・ストリート・ジャーナルは一連の長期連載特集記事のなかで1980年代後半の関係の変容について批判し、1990年代に向けて日米が緊密に協力することが可能なのか、また適切なのかどうかを論じた。ワシントンに拠点を置く委員会が1990年に発表した21世紀の日米関係について大衆が支持する権威ある報告やメディアの意見は緊密な日米関係を保つことについて警鐘を鳴らしていた。それは危機の状態にあるといわれていた日米関係の構造の「猜疑心、非難と少なからぬ自己正当化」による「新たな正統性」を警告した。 比肩すべき経済力を持つ国となった日本とアメリカの関係は、特に1980年代において水面下で変化しつつあった。この変化は1980年代中盤から毎年400億ドルから480億ドル台で推移していたアメリカの対日貿易赤字をはるかに超える意味を含んでいた。1980年代初めから続くアメリカの貿易と財政の双子の赤字は、日本とアメリカの通貨の価値の再調整という一連の決断につながることになった。強くなった日本円は日本がより多くのアメリカ製品や米国債を購入することや、重要な対米投資を行うことを可能にした。1980年代終盤には、日本は世界の主要な債権国となっていた。 増え続ける日本の対米投資、それはイギリスに次いで2番目に多いものだったが、それは一部のアメリカの有権者にとって、不満のもとになっていた。それだけでなく、日本の産業はアメリカの製造業のほうが未だ優勢ではあったが、ハイテク産業への投資のために経済力を行使するのによい位置を占めていると思われていた。多くの日本人とアメリカ人は、このような環境における個人や政府、民間の債務と低い貯蓄率がアメリカの競争力を阻害していると考えていた。 1980年代終盤、東ヨーロッパの社会主義陣営の崩壊とソビエト連邦の指導者が大きな国内的な政治及び経済の問題に没頭せざるを得なかったこと、またソ連がアフガン侵略で他国を侵略する余裕がない為、日本侵攻の脅威が大幅に低減した状態は日本とアメリカの両国政府に長期にわたり継続していたソビエト連邦の脅威に対する安保関係を再評価させることになった。両国の関係者は安全保障関係が経済や他の問題よりも優先すべき関係の不可欠な要石であると強調する傾向にあった。日米両国の関係者や評論家のなかには、アジアにおける強力なソ連の軍事的プレゼンスが続くなかで、日米両国が共有する危機を強調し続ける者もいた。彼らはモスクワのヨーロッパの民主化に伴う復員および太平洋における日米と比較しての兵力削減まで日米安保を維持することを強調し、ワシントンと東京には軍事的な準備と警戒が必要であることを説いた。 しかしながら、他の者は日米の密接な安全保障関係の利益がますます強調されていることを認めた。日米安保は東アジアにおいて潜在的に混乱を引き起こす勢力、特に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する抑止力になっていると思われていた。皮肉なことに、アメリカの関係者のなかには、日米安保がアメリカの監視の下で日本の台頭や潜在的軍事力をチェックするのに役立ったと指摘する者もいた。
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