山海関事件
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日本は義和団の乱の際に結ばれた北京議定書においてロシアを意識した要求を行い、万里の長城の東端に位置する山海関とその西南15kmにあり不凍港として重要視される秦皇島などに駐兵する権利を得ていたため、この時期の山海関には北寧鉄路南側の兵営に歩兵100人と工兵の小部隊を駐留させ砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約50人を駐屯させていた。 1933年1月1日午後9時20分頃、山海関南門外日本憲兵分遣所構内、同憲兵分遣所長宿舎、奉山線山海関駅日本軍鉄道看視哨所及び満州国国境警察隊付近に手榴弾を投じ、小銃射撃を加えた者があり、日本軍守備隊は直ちに警戒配置につき、中国側とは協定を結び小康状態を保っていた。1月2日午前11時頃日本軍守備隊は協定に基き南門の処理に向かおうとしたが、中国軍が依然南門付近にあって不法に突如射撃を加えてきたため兒玉利雄中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出した。日本側の報道によると日本軍守備隊は自衛上やむなく応戦し、午後3時30分以後山海関付近の中国軍と戦闘を開始して奉山沿線にあった関東軍の一部を増援として得た。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近において反満抗日の行動に出つつある情況から、中国側官憲が日本の国際的地位を不利にするため行った計画的挑戦であることが明らかであると発表した。支那駐屯軍司令官中村孝太郎中将は1月2日午後11時30分北平歩兵隊長粟飯原中佐を通して張学良に対する軍司令官の警告を手交し、日本人居留民は山海関及び秦皇島とも守備隊兵営に収容し保護された。 1月3日、日本軍爆破隊は山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃、綏中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、11時55分日章旗を揚げた。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱」からの艦砲射撃に加え、19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器と対峙したため、圧倒するに至った。日本軍はこの戦闘後も中国側内部に侵攻する動きを見せず、日本軍司令官からは停戦の申し入れがなされた。一方、日本側の報道によると近くの秦皇島にいた中国軍は山海関陥落の報に逃げ腰となり中国人街一帯にわたって恣意的な徴発(略奪)を行ったため中国住民は恐慌をきたし、さらに避難した日本人居留民の家屋からも一物も残さず略奪していた。 日本軍の山海関南門攻略に関する報道は日本側と中国側で異なっていたが、外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した。 山海関事件について当時のロンドン・タイムズは、日本は最終的に熱河省から無法者を追い払う意図を決して隠したことはないが、この事件を中国側の挑戦によるものとする日本側の主張は現場近くに日本の軍隊がいなかったという事実と戦闘が始まった時には第二師団が釜山から日本に向けて出航していた事実によって裏付けられるとし、「中国側が西欧列強の支援を得るためのものではないか」と論じた。同じく英国のデイリー・メール紙は事件は主に張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使することを期待したのではないかと論じた。中国側は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかったが、ロンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとして防御するのは当然の権利」と説明している。 フランスでは、フランス社会党党首レオン・ブルムが同党の機関誌において反日的な論説を行い、日本との即時断交を主張したが、4日の夕刊各紙の報道はいずれも日本を弁護した。『タン』紙は「日本軍の北平への進出説があるが軽々しく信じられぬ」とし、『リベルテ』紙は「山海関事件は中国側が悪いに相違ない、国際連盟は事務局の力でごまかすだろう」と報じた。 一方で、この事件の原因を支那駐屯軍山海関守備隊隊長の落合甚九郎の謀略とする研究もある。
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