山海関での前哨戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:39 UTC 版)
山海関は要塞化された万里の長城の東端であり、長城が海とかち合う場所である。1901年の義和団の乱協定の条件によって、大日本帝国陸軍は山海関に約200人の小さな駐屯地を維持していた。1932年10月1日に、満州国国境警備隊と中国軍の間で起きた戦闘 (第一次山海関事件) と、12月8日に日本軍の装甲車が給水目的で山海関駅に立ち寄った時に起きた中国軍との戦闘 (第二次山海関事件) は、局所的だった事もありすぐに解決していた。だが、1933年1月1日の夜、日本軍の駐屯地司令は、手榴弾を数個爆発させ、数発発砲することで、「事件」を演出した。関東軍は、山海関を守っていた東北辺防軍(中国語版)第626連隊に、通路の防衛戦からの退避を求める為、これを口実として利用した (第三次山海関事件)。 中国の駐屯兵が撤退を拒否すると、第8師団は最後通告を発し、装甲列車4両と戦車10台の支援と共に山道を攻撃した。日本の攻撃は、爆撃機からの近接航空支援と、沖合の12隻の軍艦を伴う大日本帝国海軍第二艦隊の砲撃により支援された。1月3日、攻撃に抵抗できなくなった中国の連隊長は、部下の半数を喪失してから、拠点からの退避を余儀無くされた。第8師団はこの3日間の攻撃後に、山海関内城を占拠した。満州の政策とは区別した、局所的解決を試みた関東軍と陸軍中央部は、張学良に対して山海関からの一定範囲内への接近禁止を求める事で、第4旅団のみを残して軍を退けた。
※この「山海関での前哨戦」の解説は、「熱河作戦」の解説の一部です。
「山海関での前哨戦」を含む「熱河作戦」の記事については、「熱河作戦」の概要を参照ください。
- 山海関での前哨戦のページへのリンク