山海二道蝦夷征討戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「山海二道蝦夷征討戦」の解説
宝亀7年1月末頃、陸奥国から同年4月上旬を期日として陸奥国軍2万人を発して山道と海道の蝦夷を征討する計画が申請された。中央政府は宝亀7年2月6日(776年2月29日)に征討計画を承認、出羽国に軍士4000人をもって雄勝方面より山道蝦夷の西辺を攻めて陸奥国の征討を支援するよう指示した。 宝亀7年7月以前に陸奥国で駿河麻呂が死去、征夷は広純らに引き継がれた。 宝亀7年5月2日(776年5月23日)、出羽国志波村の賊と戦った出羽国軍が不利となったため、中央政府は下総国、下野国、常陸国の騎兵を援軍として現地に向かわせている。 宝亀7年9月13日(776年10月29日)には陸奥国の俘囚395人を大宰府管内諸国に移配、11月29日(777年1月13日)には出羽国の俘囚358人を大宰府および讃岐国に移配して、78人を在京の諸司および参議以上に賤(奴婢)として与えている。 宝亀9年6月25日(778年7月24日)、陸奥国司と出羽国司以下2267人に対して叙位・叙勲が行われた。この時、外正六位上吉弥候伊佐西古と蝦夷爵第二等伊治公砦麻呂の2人の蝦夷系豪族も地方人として最高位に近い外従五位下を与えられている。 駿河麻呂の山海二道蝦夷征討計画について樋口知志は、征討される蝦夷社会の側にとってはあまりにも理不尽なものであったといわざるをえないと論じている。
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