共産軍との接触
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1944年12月2日、ホロハンはイカルディを現地共産軍指揮官ヴィンチェンツォ・モスカテーリ(イタリア語版)の元へ派遣した。この会見は投下される支援物資の供給を管理する権限を求めていたパルチザン将校、アミンタ・ミグリアリ(イタリア語版)が設定したため、やむを得ず行われたものだった。ミグリアリは信頼のできる男ではないと考えられていたものの、工作班は支援を継続するために彼に頼らざるを得なかった。当時、イタリア北部に展開する抵抗運動のうち共産軍はおよそ75%を占めていたが、工作班は投下される物資を各勢力に対し均等な割合で供給していた。そのため、共産軍が他勢力から補給物資を強奪することもしばしばあった。イカルディが1950年に行った証言によれば、ホロハンは共産軍と他勢力を同等に扱っていたという。やがて、イタリア人の間ではホロハンが「熱狂的反共主義者」であるという噂が広まっていった。 工作班はオルタ湖(英語版)湖畔の大きな別荘を拠点として使用していたが、モッタロン(英語版)地区でパルチザン狩りが始まったとの情報を得たため、速やかに避難することとなった。12月7日深夜から撤収作業が始まり、別荘の警備に当っていたパルチザン隊員のグアルティエリ・トッツィーニ(Gualtiero Tozzini)とジュゼッペ・マンニーニ(Guiseppi Manini)も荷物運びに参加した。その最中、トッツィーニが足音を聞いたと言い、誰何を試みた途端に銃撃が始まった。事前の計画通り、隊員らは応戦しつつも分散して各自逃走を試みた。イカルディはミグリアリの指揮所まで逃げ切った。その後工作班は再集結を果たしたものの、ホロハンのみが行方不明となっていた。イカルディはすぐに事件の顛末を司令部へと報告した。 2週間後、ミラノに駐在していたOSSエージェントが調査のためにオルタ湖へと派遣された。別荘では連合・枢軸両軍ともが使用している9mm弾の薬莢が発見されたほか、湖畔にはホロハンが所持していた手榴弾が1つ残されていた。 その後、工作班はイカルディの指揮下で物資供給工作を再開した。モスカテーリが後に語ったところによれば、ホロハンの死後はOSSによる支援が増加したという。1945年2月、クライスラー工作班はミラノへと移った。しかし、都市部という環境のために物資の投下は行えず、工作班は郊外に潜伏することとなった。
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