にし‐イリアン【西イリアン】
読み方:にしいりあん
《West Irian》インドネシア領のパプア州(イリアンジャヤ)の旧称。
西イリアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 05:40 UTC 版)
「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「西イリアン」の解説
独立戦争当時からスカルノは西イリアンをインドネシア領と考えていた。しかし、オランダはインドネシアの独立を容認してからも西イリアンでの植民地支配を継続していた。スカルノは国連やバンドゥン会議の場で、西イリアンはインドネシア領である、と諦めずに訴え続けた。バンドゥン会議参加国はインドネシアの主張を支持することを約束したが、オランダは断固として西イリアンに居座り続けた。1960年にはスカルノはしびれを切らし、7月になると彼はナスティオンを含む国軍トップと協議し、その場で西イリアン問題解決のためにオランダと対決することを合意した。 そのキャンペーンを展開するための準備の一環として、ナスティオンは、1960年11月に SESKOAD の課程を修了したスハルトに目をつけた。准将に昇進したスハルトに対して、ナスティオンはいつでも作戦に投入可能で、常に待機・準備している戦略軍の設立を命じた。スハルトはこの機動部隊担当に配置され、1961年3月、陸軍総合予備軍 (CADUAD) が設立され、スハルトがその初代司令官に任命された。陸軍総合予備軍は1963年に名称を変え、陸軍戦略予備軍 (KOSTRAD) となる。 1962年初め、ナスティオンとヤニは、いわゆる西イリアン解放作戦のすべてを取り仕切る司令官となり、現地の東インドネシアには野戦指揮官としてスハルトを常駐させた。
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