インドネシア民主党時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:55 UTC 版)
「闘争民主党」の記事における「インドネシア民主党時代」の解説
スカルノ失脚後、スハルト政権は、1975年の「政党・ゴルカル法」によって、既存の諸政党を2つの野党に整理・統合した。イスラーム系の諸政党は「開発統一党」(Paratai Persatuan Pembangunan、略称PPP)に、非イスラーム系政党は「インドネシア民主党」(Partai Demokrasi Indonesia、略称PDI)にそれぞれ統合され、インドネシア国民党も後者の民主党に統合された。 その結果、インドネシア民主党は、何も紐帯をもたない、きわめて雑多な要素を内包する団体となり、党内の主導権争いに明け暮れ、また政権からの介入を容易に許すなど、政党としての求心力は弱かった。 こうした党勢を挽回するために担ぎ出されたのが、スカルノの子供たちだった。1983年の選挙で、当時の党首スルヤディによって擁立されたスカルノの長女メガワティは当選し、また「スカルノ人気」ともあいまって、同党は議席数を伸ばした。さらに1993年12月には、おもに同党の地方支部からの絶大な支持を受けて、メガワティが民主党党首に就任することになった。
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