1810年 - 1812年とは? わかりやすく解説

1810年 - 1812年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:10 UTC 版)

大陸軍 (フランス)」の記事における「1810年 - 1812年」の解説

スペイン除いてヨーロッパで一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり1812年戦争つながったナポレオンはこの脅威対処するために、これまでにない最大規模軍隊結成した新し大陸軍それまで変わっていて、士官半分以上フランス同盟する衛星諸国地方から徴兵した非フランス人占められた。ポーランドオーストリア部隊除いてすべての部隊フランス将軍指揮下に入った巨大な多国籍軍1812年6月23日ネマン川越え東方進軍しロシアはその前に後退していった。ナポレオン迅速に行軍すればロシア2つ主力部隊ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍3回以上もナポレオン鉾先避け事態になり、大陸軍には苛立ち溜まっていった。スモレンスク占領しモスクワを守るための最後防衛戦として9月7日ボロジノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍勝ったものの犠牲多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利7日後の9月14日ナポレオン大陸軍大部分はついにモスクワ到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻炎上する町があるだけだった兵士達消火活動一方で放火狩りをやり、モスクワ守り強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘病気(主にチフス)で夏の間にすでに兵士半分失っていたうえに、ロシア焦土作戦によって大陸軍確保できる食糧無かったフランス皇帝無為にロシア皇帝和平探りを入れている間、ナポレオン大陸軍モスクワ1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試み失敗に終わると、10月19日遂に西方への退却開始した退却侵攻以上に悲惨極め寒さ飢え病気悩まされ集まってくるコサックロシア軍繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイ殿軍引き受けロシア軍との間の分離図ったが、大陸軍事実上壊滅し、およそ400,000名が死にベレジナ川到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。それでもベレジナの戦いの結果ジャン=バティスト・エブレ技師達によるベレジナ川橋を架ける必死作業で、ナポレオン軍残兵救われた。ナポレオン新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリ帰った。 軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。この大遠征は、今まで大陸軍積み上げてきた数々勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果終わった

※この「1810年 - 1812年」の解説は、「大陸軍 (フランス)」の解説の一部です。
「1810年 - 1812年」を含む「大陸軍 (フランス)」の記事については、「大陸軍 (フランス)」の概要を参照ください。

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