仏露関係の悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 06:09 UTC 版)
「露土戦争 (1806年-1812年)」の記事における「仏露関係の悪化」の解説
ロシア帝国は5年にわたるフランスとの協調関係で利益を得たものの、仏露両国の緊張はゆるむことがなかった。 ティルジット条約によってイギリスと断交したロシアであったが、イギリスへの第一次産品の輸出やイギリスからの工業製品・植民地産品の輸入の多かったロシア経済は深刻な打撃を受け、貴族や商人層のあいだには不満と反フランス感情が高まった。また、1808年の会談でナポレオンは嫡子の生まれない皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚して皇帝アレクサンドル1世の妹との結婚を申し込んだが、ロシアは婉曲に拒否している。1809年のワグラムの戦いでは、オーストリアがナポレオン軍に大敗したが、ロシアは同盟国フランスよりもオーストリアに対し好意的な態度を示した。1810年、ナポレオンはオーストリアの皇女マリア・ルイーザ(マリー・ルイーズ)と結婚してオーストリアとの関係を深め、北ドイツのオルデンブルク公国を併合したが、これはロシアをおおいに刺激することとなった。ロシアはイギリスとの関係を改善し、中立国に対して国内の港湾を開放するなどナポレオンの対英政策に公然と非協力的な態度を示すようになった。
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