女官・侍女
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「マリー・アントワネット」の記事における「女官・侍女」の解説
ノアイユ伯爵夫人(フランス語版)侍女長ないし女官長。ノアイユ家。1775年、ランバル公妃が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。1794年6月27日、夫フィリップともどもパリでギロチン刑に処された。 カンパン夫人1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やポリニャック公爵夫人らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にてナポレオン・ボナパルトの子女を教育したことを理由に、王政復古後はマリー・テレーズから絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した。 ルイーズ・ケットペ・ド・ラボルド ("Louise Marguerite Émilie Henriette Quetpée de Laborde")カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。ジャルジャイュ伯爵フランソワ・レーニエ(フランス語版)将軍は再婚相手。 トゥルゼール公爵夫人(フランス語版)1789年のフランス革命勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり、国王子女の養育係に任命された。ヴァレンヌ事件では国王一家と同行し逮捕。常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている。 ポリーヌ・ド・トゥルゼール(英語版)トゥルゼール公爵夫人の娘。母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。結婚後はベアルン伯爵夫人。マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。
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