再帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:07 UTC 版)
「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事における「再帰国後」の解説
テュイルリーに戻ったランバル公妃は、王妃の支持者を糾合し、家政機関のスタッフの忠誠心をチェックし、亡命貴族たちに王妃のために帰国するよう求める手紙を送る、総監としての職務を再開した。その中には、1792年に妻のヴィクトワールとともにランバル公妃の宮殿内のアパルトマンで王妃に謁見し、亡命貴族の群れに加わるよりも国内に残って王室のために助力せよと王妃から説得され、国内で反革命活動を推進することを誓ったレスキュール侯爵(英語版)のような人もいた。ランバルはパリ市長ペティヨン(英語版)の憎悪の標的となり、宮殿のランバル公妃のアパルトマンで開かれる王妃臨席の夕食会の正体は、反革命勢力のフランスへの侵攻、第2のサン・バルテルミの虐殺、革命の破壊を目論む「オーストリア委員会」の会合であるという風説をばら撒かれることにつながった。 6月20日デモ(英語版)の際には、ランバル公妃は宮殿で乱暴狼藉を働く群衆に怯える王妃の側にいた。王妃ははじめ「王のおそばにいます」と主張したが、ランバルは「いいえ、駄目です、マダム、陛下はお子様方と一緒にいるべきです」と注進し、王妃はその場に留まった。王妃を群衆から守るため王妃の前にテーブルが置かれた。王妃を口汚く罵る群衆が通り過ぎるまで、ランバルと他の女官・侍女たち、数人の貴族男性たちは、王妃と王子女を取り囲んで守らねばならなかった。証言者によると、病弱なランバルは王妃の肘掛け椅子に寄り掛かりながら、一連の出来事のあいだ立ち続けて諸事に対応したという。「ランバル夫人は偉大な勇敢さを示した。王妃の椅子に寄り掛かりながら長時間の修羅場のあいだずっと立ち続け、自分のことは全く考えず、ただ目の前の不幸なプリンセス[王妃]のことで頭がいっぱいのようだった」。 ランバル公妃は、8月10日事件が発生しテュイルリー宮殿が民衆に襲撃されると、国王一家及び王家のガヴァネスであるトゥールゼル侯爵夫人とともに立法議会の議場に避難した。ラ・ロシュフコー夫人(M. de la Rochefoucauld)は当時のことを次のように回想している、 私が[議場の]中庭に行くと、御一行の中で最も憔悴し怯え切ったランバル公妃が、私が腕を差し伸べられるくらいのところまで近づいて来られた。公妃は私に言われた、「もう城には戻れないわね、絶対に」。 議場の書記官室での避難生活中、ランバル公妃は体調を崩してフイヤン修道院に移された。王妃は彼女に戻ってこないよう求めたが、ランバルは病状が快方に向かうとすぐに国王一家の許に戻った。そして議場からフイヤン修道院、タンプル塔へと身柄を移された国王一家に同行した。8月19日、ランバル公妃、トゥールゼル夫人及びその末娘ポーリーヌは国王一家と引き離されてラ・フォルス監獄(英語版)へ移送された。彼女たちはそれぞれ監獄内で独房を与えられる待遇を受けた。国王一家にもはや家臣に取り囲まれて暮らすことを許さないとする政府の判断で行われた措置で、2人の男性従者と3人の女性召使も同時にタンプル塔から追放された。
※この「再帰国後」の解説は、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の解説の一部です。
「再帰国後」を含む「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の記事については、「ランバル公妃マリー・ルイーズ」の概要を参照ください。
- 再帰国後のページへのリンク