王家のガヴァネス
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「ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン」の記事における「王家のガヴァネス」の解説
1782年、王家のガヴァネス(王家養育係主任女官)だったゲメネ夫人が、投資詐欺に巻き込まれた夫の破産スキャンダルのために辞職した。王妃はゲメネ夫人の後任にガブリエルを任命した。この人事は、(次代の王を育てる)その役職の重要さを考えるとポリニャック家のような平凡な家柄の者が務めるのは分不相応だ、ということで、またもや宮廷人の反感を買った。 新たに得た地位に付帯する特権により、ガブリエルはヴェルサイユ宮殿内に13の部屋から成るアパルトマンを与えられた。この特権自体は宮廷儀礼の範疇に収まる措置であったものの、13という部屋数の多さは常に人口過密のヴェルサイユ宮殿にあっては前例のないことだった。王家のガヴァネスに割り当てられるアパルトマンの部屋数は通常4部屋から5部屋ほどであった。ガブリエルはまた、1780年代に小トリアノン宮殿の敷地内に造営された王妃の田園風の隠遁所「王妃の村里」の中にコテージを与えられた。 ガブリエルの結婚生活は因習的な貴族同士の結婚であり、夫と心が通うこともなく、家庭は幸福とは言えなかった。長年、夫の遠縁で近衛部隊所属の陸軍大尉だったヴォドゥロイユ伯爵(英語版)と愛人関係にあると見られていた。一方で、ガブリエルが仲間入りした世界では、ヴォドゥロイユは暴力的すぎ、礼儀をわきまえなさすぎるため、2人の交際は相応しくないと周囲からは思われていた。ガブリエルがヴェルサイユ宮廷に来てから産んだ下の息子たちは、実父はヴォドゥロイユだと噂されていた。しかし、ガブリエルとヴォドゥロイユとの間の関係がどのような類のものだったかについては一部の歴史家の間で議論になっており、2人の関係に性交渉が介在したかについて疑問が呈されている。このプラトニック説は近年、カトリックの歴史作家エレナ・マリア・ヴィダル(英語版)によって復活した。恋人同士と言われ続けていたにもかかわらず、人を巧みに操るヴォドゥロイユを王妃が毛嫌いし、ヴォドゥロイユの存在が自分の得た地位を脅かす恐れが生じると、ガブリエルは何のためらいもなく彼を見捨てたからである。 ヴォドゥロイユとガブリエルの間で交わされた手紙は現在のところ発見されていないが、それは2人の関係が絶えたころにはお互いをもう必要としなくなっていたためなのか、それとも政治的配慮から2人のやりとりを隠して行っていたためなのかは、判然としない。もし手紙が交わされていたとしても、それは一方、あるいは両方、あるいは第三者が、用心のために破棄してしまったからだと考えられる。 次男のノルマンディー公爵を出産した1785年頃から、ヴォドゥロイユが無礼で苛立たしい人物だと気づいた王妃は彼に対する嫌悪感を募らせ、それにつれてガブリエルの王妃に対する影響力は衰えていった。王妃の侍女頭カンパン夫人によれば、王妃はポリニャック一族に対して自分が感じる「強い不満感にお苦しみあそばされた」。カンパン夫人は述べている、「王后陛下は、『君主が自分の宮廷で寵臣をつくるということは、君主自身に対抗するもう一人の専制君主をつくるということなのね』と私に仰せになった」。 王妃に煙たがられていると感じたガブリエルは、イングランドの友人たち、特に親友の1人でロンドン上流社交界の指導者的存在だったデヴォンシャー公爵夫人を訪ねにイングランドへ旅立った。同国滞在中、ガブリエルはひ弱な体質のために「ちっちゃなポー(Little Po)」という呼び名で知られた。
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王家のガヴァネス
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「アナ・リオノウンズ」の記事における「王家のガヴァネス」の解説
1862年、リオノウンズはシンガポール領事Tan Kim Ching からの依頼でタイの国王であるラーマ4世の妻子へ教育を施すこととなった。ラーマ4世は王妃および側室39名、子82名に、これまでの宣教師の妻ができなかった西洋の現代科学教育を施してもらうことを望んでいた。リオノウンズはアヴィスをイングランドの学校に進学させ、ルイスを伴ってバンコクに向かった。アメリカ人宣教師ダン・ビーチ・ブラッドリーの後継でシャム王国の教師となった。 1867年まで6年近く、最初は教師として、のちに外国語秘書として王国で勤務した。この職は大いに尊敬され、政治的影響力もあったが、リオノウンズは条件も状況も不満であり、王は「非常に難しい女性」と評していた。 1868年、リオノウンズは健康問題のためシャムを離れイングランドへ向かったが、ラーマ4世の病死後、より良い条件でシャム王国に戻れるよう交渉した。ラーマ4世は遺言にリオノウンズとルイスについて言及していたが、2人は遺産を受け取っていない。新たな王朝では15歳のラーマ5世が跡継ぎとなり、リオノウンズにあたたかな感謝の手紙を送った。ラーマ5世はリオノウンズに再び職を与えることはなかったが、長年にわたり友好的に連絡を取り合った。ルイスが27歳の時、シャムに戻り王国騎兵隊大尉に任命された。ラーマ5世は、王朝での土下座のような平伏の廃止など、リオノウンズが進言した改革を検討した。しかしそれらの多くは結局父ラーマ4世の方針とほぼ同じものとなった。
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