レスキュール侯爵
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「ヴィクトワール・ド・ドニサン・ド・ラ・ロシュジャクラン」の記事における「レスキュール侯爵」の解説
1789年の終わり、彼女は両親とともにメドックのシトラン城へ移り住んだ。その城で1791年、彼女は資産のない若い将校で、いとこにあたるルイ・マリー・ド・レスキュール(fr)と結婚した。彼の名は大きな名声を得ることになる。この結婚は、恋愛結婚であり、都合の良い結婚でもあった。フランス国内の政治状況はより深刻さを増していた。レスキュールは移住を決意し、1792年夏に妻を連れてパリへ向かった。最悪の状況だった。彼は1792年6月20日(fr)の民衆デモ、8月10日事件の現場にいたのである。8月10日事件では、避難場所を探すことを余儀なくされ、彼と、当時妊娠7ヶ月のヴィクトワールは大きな危険にさらされた。フランスから外国へ亡命する計画を捨て、レスキュールはブレシュイールからドゥー=セーヴル県のクリソン城(ブルターニュのクリソンにある城とは異なる)を含む自らの所領に退避することが賢明と考えた。ドニサン夫妻も娘夫婦に同行した。パリを発ったのはちょうど九月虐殺が発生する直前の8月25日で、深刻な困難がないわけではなかった。最も激しい社会動乱を起こす人々の真っ只中を、長い旅行をしていかねばならなかった。
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