レスキュールの死
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「ヴィクトワール・ド・ドニサン・ド・ラ・ロシュジャクラン」の記事における「レスキュールの死」の解説
レスキュールの死からヴァンデ軍の四散までの約6週間の間、ヴィクトワールは寒さ、空腹、疲労、悲しみ、過酷さを増す不安に耐えねばならなかった。発熱に苦しめられ、農婦の服装をし、数日間野に出て畑のタマネギを裂いて食べたこともあった。疲れを取るために、彼女は時々短時間だけ藁の上で仮眠を取ったが、彼女のそばに落ちた砲弾の音で目が覚めたこともあった。逃避行の最後の時、彼女は娘を手放すことを余儀なくされた。ヴィクトワールはアンスニ近郊の農家の家族に娘を預けたのである。サヴネで彼女は父ドニサンから離ればなれになった。彼は数日前に撃たれ、拘束されたのである(ギィ・ジョゼフ・ド・ドニサンは1794年1月に刑死する)。ヴィクトワールの母はブルトン人農婦の服装で変装して、プランキオー近郊の農家に避難した。 温かく迎えられて、彼女は1793年から1794年にかけての冬を小作農の元ですごした。彼らは苦難と窮乏の生活に慣れた人々で、その貧しさは革命派の追跡をかわすことに役立った。ドニサン夫人ともどもひどい身なりだったので、彼女たちは頻繁に施しを与えていた側であったにもかかわらず、施しを受ける側で身をさらすことも少なくなかった。しばしば青軍(共和国側)の捜索から逃れるために森の中に逃げることを余儀なくされ、その生活は恒常的な不安と警戒、危険と恐怖の連続だった。 こうした過酷な試練の只中に、ヴィクトワールは双子の女児を出産した。彼女はその後一月あまりの間、人目を引かないように窓やドアを閉めるよう注意しながら、数年来無人となっていた藁葺きの家で過ごした。彼女はこの悲惨な住まいで双子のうちの一人の死を経験した。ヴィクトワールは涙に暮れつつも「この子は、私よりも幸せだわ!」と言わずにはいられなかった。 多くの危険に遭遇し、避難場所から避難場所へと彷徨った後、1794年のテルミドール9日のクーデターで恐怖政治は駆逐され、追放者に対して安全が保障されるようになった。しかし、そうした風潮が中央から離れた僻地で浸透するには時間がかかった。最終的に恩赦が宣言され、レスキュール未亡人はナントへ向かった。そこで彼女は自分よりも悲惨な不幸を背負った人々を見つけたのである。彼女はその後メドックのシドラン城へ移り住んだ。彼女の人生で最も活動的で、ほとんど過激であった生活が終わった。彼女は新たな住居に1795年の2月に到着した。到着後まもなくして、ヴィクトワールは別の死の知らせを聞いて泣くことになる。逃避行の最中に手放した娘が死んだのである。
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