窮乏の生活
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「ギヨーム・アポリネール」の記事における「窮乏の生活」の解説
パリでの生活は窮乏を極めた。1900年2月19日から4月24日までH・デスナールの筆名で『ル・マタン(フランス語版)』紙に小説『何をすべきか』を連載。これは弁護士アンリ・エスナールのゴーストライターとして、小説家ウジェーヌ・ガイエ と共同で執筆したものであり、19世紀末に起こった殺人事件を織り込んだ推理小説風または空想科学小説風の作品である。通俗的新聞小説だが、その型破りな作風にはすでに後の『異端教祖株式会社』の萌芽が伺われる。だが、原稿料が支払われなかったため、次に、ガイエが主宰するモンマルトルの風刺週刊新聞『タバラン』(魔術師、奇術師、縁日芝居の俳優タバラン(フランス語版)(1584-1626)に因む紙名)に寄稿した。しかし、ガイエもまた広告掲載料でかろうじて印刷・製本代をまかなっていたため、原稿料はほとんど支払われなかった。 この頃、アポリネールはポルトガル系ユダヤ人の友人フェルディナン・モリナの妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァと出会い、毎日のように「ランダへの愛の誓いのことば」、綴り字LINDAを行頭に読みこんだ五行詩などなどの熱烈な愛の詩を書き送った。これらの書簡詩は後に「ランダ詩篇」としてまとめられることになる。とはいえ、ランダはアポリネールの愛に応えることはなく、結婚の申し込みもあっさり拒絶した。 相変わらず窮乏を強いられていたアポリネールは、新聞の求人欄で見つけた株式取引所の書記に採用されたが、給料の不払いが続いて失職。生活費を得るために好色本専門の書店からの依頼で性愛小説『ミルリーまたは安価な小さい穴』を偽名で書き上げたが、刊行されなかった。原稿が現存しないため、事情は不明である。取引所の同僚の母親の紹介で、ドイツ系ノルマンディー貴族ミロー子爵夫人の娘ガブリエルのフランス語の家庭教師の職を得、ミロー家に同行してライン河畔のノイ・グリュック、そしてホンネフの別荘に滞在した。このとき、モナコのコレージュの同窓生であったジャン・セーヴの紹介で文芸誌『ラ・グランド・フランス』に寄稿。ヴィルヘルム・コストロヴィツキの筆名で3篇の詩『月のもの』、『婚礼』、『都会と心』を発表した。 さらに、同じくガブリエルの英語の家庭教師となった英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。翌1902年にミロー家がライン地方の領地に引き上げることになったときにも、アンニーとともに一家に同行し、ケルン、ハノーファー、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンなどドイツ各地を旅し、一人でプラハやウィーンも訪れた。このときにルーカス・クラナッハ、ハンス・ホルバインらルネサンス期のドイツの画家はもちろん、アルフレッド・シスレー、カミーユ・ピサロらの印象派の画家、彫刻家オーギュスト・ロダンの作品に出会ったことは、かれが芸術評論を書くきっかけとなっている。一方、アンニーもまたアポリネールの愛を拒み、1903年に英国に帰国。アポリネールは追いかけて渡英し、結婚を申し込んだが、今回もまた断られた。こうした経験から生まれたのが後に詩集『アルコール』に収められる「恋を失った男の歌」(あるいは「愛されない男の歌」)である。ただし、ランダ、アンニー、そしてこの後に出会うマリー・ローランサンほかの女性たちが愛の詩に歌われるときに、「愛の女神、詩の女神、芸術の女神として愛する」女性として描かれるのと同様に、「恋を失った男の歌」でもアポリネール独自の神話化作用が働いている。
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