フェルセンの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:34 UTC 版)
「ハンス・アクセル・フォン・フェルセン」の記事における「フェルセンの最期」の解説
1809年グスタフ4世は失政を糾弾され、クーデターによって廃位された。フェルセンはクーデターには関与しなかったが、貴族たちが作った臨時政府には加わった。新しく王位に就いたカール13世には世子がなかったため、アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト(カール・アウグストと改名)が王太子に指名されたが、1810年にこの王太子は閲兵の途中卒中の発作のため死亡した。その直後から、王位を狙った暗殺事件であるとの噂が飛び交い、暗殺の首謀者としてフェルセンの名が取り沙汰された。しかしカール13世は冷静を装ってフェルセンに葬儀執行を命じ、フェルセンもそれに従った。 当日、クリスチャン・アウグストの遺骸がストックホルムに運ばれ、市内の広場で葬儀が行われたが、そこに馬車で現われたフェルセンに群衆が暴動を起こした。現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士たちはあえて暴動を制止しようとせず、フェルセンは群衆によって惨殺された。フェルセンの遺体は、全裸で側溝に投げ捨てられるという無惨な扱いを受けた。事件が起こった6月20日は、19年前にヴァレンヌ事件が起こったその日であった。 同年12月、裁判所がカール・アウグストは病死であるとの判断を下し、フェルセンは汚名をそそがれ、高官としての葬儀を許された。
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