キヤーマの宣言による急進化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)
「ニザール派」の記事における「キヤーマの宣言による急進化」の解説
ハサン2世の統治は4年弱と短かったが、ニザール派の歴史の中でも非常に重要な時代である。アラムートの指導者は、ハサン2世にいたるまでニザール派の主席ダーイーかつニザールのフッジャ、すなわち代理人としてニザール派を率いてきたが、1164年8月ハサン2世はキヤーマを宣言したのである。イスマーイール派におけるキヤーマとはイマームのカーイム(=マフディー=救世主)としての再臨のことであり、その日シャリーアは廃棄される。ハサン2世はこれにしたがって、シャリーアを廃棄、しかも自らがニザールの子孫であり、イマームであると示唆したのである。シャリーアの廃棄は通常イスラームの枠外に出ることを意味するが、ニザール派はハサン2世に従ってこの主張を完全に受け入れた。ただし実際のニザール派の活動においては教条的なシャリーア実践が改められたものの、頽廃的な乱脈に陥ったという史料の報告はない。 1169年1月9日、ハサン2世は保守派の義弟に殺害された。しかしあとを継いだ息子のヌール・アッディーン・ムハンマド2世もハサン2世の施策を受け継いだ。ムハンマド2世はアラムートの指導者はイマームとして、ニザール派の前に立ち、ハサン2世の教義の洗練に力を注いだ。すなわち父ハサン2世はニザールの子孫であると論じたのである。彼の40年強の統治は安定し、セルジューク朝の統一権力も完全に瓦解したこの時代、周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった。シリアのニザール派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド2世は1210年9月1日に没し、ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。
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