急進党の時代(1916年-1930年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)
「アルゼンチンの歴史」の記事における「急進党の時代(1916年-1930年)」の解説
幾度も政権を担当し民主化に努めた急進市民同盟のイポリト・イリゴージェン マルセーロ・アルベアール 1916年に大統領選挙によって急進党からイポリト・イリゴージェン大統領に就任したが、しかし政治の民主化を唯一の綱領としていた急進党にとっては政権に就いた時点でその当初の目標のほとんどを達成してしまったのであり、イリゴージェン政権には具体的な社会、経済に関する計画が欠如していた。 1916年から1922年までの第一次イリゴージェン政権では労使協調を基礎とする労働者保護政策が進められたが、その一方で体制に非妥協的な労働争議はそれまでのように弾圧を以て望み、パタゴニアの農民反乱では軍隊が出動し、「パタゴニアの悲劇」と呼ばれる虐殺が行われた。他方で経済的には国民主義を基調とし、「国家石油公社」が1922年に設立されたが、鉄道の国有化等は行われず、全体的に不徹底なものに留まった。イリゴージェン政権において特筆されるのは、1918年にコルドバ大学の学生運動から始まった大学改革であり、学生側の発案により、イリゴージェンによって大学側が古いカリキュラムを改めることを認められ、この事件がきっかけになってペルーのサン・マルコス大学などを初めとするラテンアメリカ諸国の大学改革運動が始まることになった。外交においてイリゴージェンは、第一次世界大戦にて、イギリスや国内保守派からの再三の協商国側での参戦要請にもかかわらず、ブラジルやアメリカ合衆国とは異なる独自外交実践のために国民主義的な政策を採って中立を維持した。 イリゴージェンの後は1922年に急進党からマルセーロ・アルベアールが大統領に就任した。アルベアールは保守的で、1924年の急進党のイリゴージェン派と反イリゴージェン派の分裂にも一定の理解を示したものの、イリゴージェン政権において漸進的に進められていた労働者保護が、婦女子労働法、相続税の導入により一層進められることにもなる。 急進党が分裂し、敗北必至とみられた1928年の大統領選挙でイリゴージェンが勝利すると、第一次イリゴージェン政権とは比べ物にならない速さで改革が実施されることになる。具体的には北部地域の鉄道を国家主導で進め、製鉄業を保護し、石油の国有化が行われた。また、教育面でも大衆教育拡充のために1,700校近い学校が増設された。しかし、1928年に既に76歳を迎えていたイリゴージェンにかつてのような体力はなく、指導力の低下により政権では腐敗が横行し、さらには翌1929年の世界恐慌に全くの無策だと判断されたため、1930年9月6日に保守派と結びついた軍事クーデターにより、イリゴージェンは失脚した。 生活面では第一次世界大戦後もヨーロッパからの移民は続き、1920年代を通して約80万人がヨーロッパから流入した。この頃には国家の富裕化を反映して1922年には非識字率が南米で最低水準の14%にまで減少し、次第に人口に対する中産階級の比率が増加するなどの要素もあったが、この恩恵に与ったのは豊かになったブエノスアイレスとロサリオの住民だけであり、1930年代に困窮する内陸部からの国内移民が進む要因は既に出来上がっていた。 文化面におけるこの時期の特徴としては、それまでブエノスアイレスのラ・ボカやサンテルモで育ったアルゼンチン・タンゴが、カルロス・ガルデルやフランシスコ・カナロらの活躍により、パリやニューヨークなどで世界的に大成功し、アルゼンチンの名を轟かせた。 スポーツでは、1930年にウルグアイで開催された第一回ワールドカップにて、アルゼンチン代表は惜しくも決勝戦でウルグアイに敗れてしまった。このことがきっかけとなって暴徒化したブエノスイアレスのアルゼンチンサポーターによりウルグアイ領事館が投石される事件が起き、両国の間で外交問題になった。1931年にはそれまでのプリメーラ・ディビシオンがプロ化し、ボカ・ジュニオルスが初代優勝クラブとなった。
※この「急進党の時代(1916年-1930年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
「急進党の時代(1916年-1930年)」を含む「アルゼンチンの歴史」の記事については、「アルゼンチンの歴史」の概要を参照ください。
- 急進党の時代のページへのリンク